瞬の呟き――それは悲痛な叫びでもあったのだが――の意味するところが、星矢には全くわからなかった。 言葉の内容はもちろん、なぜここで急に氷河の名が出てくるのかも。 「どーゆー意味だよ。おまえ、そんなに氷河が嫌いだったのか?」 瞬の発言は確かに唐突に過ぎたし、また、人に理解や賛同を求めるようなものでもなかった。 星矢が瞬の真意を解しかねたのは、ある意味当然のことだったろう。 しかし、勘違いも はなはだしい星矢の反問に、さすがに紫龍は渋い顔になり、この時ばかりは瞬に同情したのである。 「星矢、そうじゃない。瞬は、氷河でないなら すべては自分にとって無意味で無価値だと言っているんだ。それくらい氷河が好きだと」 「へ?」 主語も目的語もはっきりしない瞬の呟きから、どうすればそんな意味を読み取れるのかが、正直 星矢にはわからなかったのである。 が、彼は、自らの文章読解力よりも紫龍のそれの方に信を置いていた。 「それほんとか?」 星矢が、瞬に確認を入れる。 瞬は無言で、その通りだとも そうではないとも明言しなかった。 瞬が否定しないことで肯定しているのだということくらいは、一応星矢にもわかった。 紫龍の推測が正しいとなると――瞬が氷河に好意を抱いていることが事実だとすると、当然、星矢の中には新たな疑念が生まれてくる。 「なら、なんで」 ならばなぜ瞬は、そう告げた相手は氷河でなかったにしても、『そういうのが、だいっ嫌い』などと断じたのか。 瞬の言動は、星矢にとっては相変わらず謎に満ちたものだった。 全くもって不可解だった。 が、瞬には瞬の考えと都合と論理があったらしい。 「だ……だって、そんなの、ふ…… 「じゃあ、おまえは、氷河がおまえに惚れていることに気付いてて、氷河を更生させるために、わざと氷河を避けてたってことなのか?」 「え?」 今度は瞬が、星矢の日本語を解しかねた顔になる。 星矢は主格と目的格を取り違えているのだ――と、瞬は思った。 瞬は、自分が氷河を好きだという話をしていたのであって、氷河が自分を好きでいるなどという話をしていたつもりは かけらほどにもなかったのだ。 「氷河……が、僕を?」 星矢の国語力に懸念を抱きつつ、とりあえず尋ねてみる。 星矢は、だが、自分が主語と目的語を取り違えたとは思っていないようだった。 彼は確信に満ちた目をして、瞬に頷き返してきた。 「僕……は、僕が氷河を好きになってることに気付いたから、だから、でも、そんなこと言ったら、氷河を困らせるだけだと思ったから……。氷河の側にいると苦しいし、言っちゃいけないことを言いそうになるし、側にいるだけで緊張するし、見てるだけで泣きたくなるし、ば……馬鹿なこと しそうになるし――」 だから、彼を避けていたのだ。 氷河の側にいるのがつらくてならず、氷河の姿を見ないという目的のために毎日ふらふらと外に出ていき、時間の過ぎるのを待った。 このつらい思いを忘れさせ、このつらい事態を解消してくれるのは、時間だけなのだと信じて。 だが、そうではなかった――時間だけが このつらい思いを消し去ってくれるものではなかった――のかもしれない。 その可能性に、瞬は今初めて思い至った。 「あの……でも……」 氷河をちらりと盗み見て すぐに視線を逸らし、蚊が鳴くように小さな声で瞬が尋ねる。 「氷河が僕を好きって、ほんと?」 瞬が尋ねた相手は氷河ではなく、星矢と紫龍の方だった。 星矢が、あまりに周りが見えていない瞬に呆れた顔になる。 「おまえ、氷河がおまえを好きでいることには気付いてなかったのかよ」 「だ……だって、そんなことあるはずないでしょ! 僕は男なんだよ!」 それはそうである。 瞬の言い分は実に尤も、自然であり、常識的であり、倫理にも適っていた。 それは確かにその通りなのだが、それで言ったら、瞬が氷河を好きだということも“ありえないこと”になる。 しかし、それは現に“ある”ことなのだ。 そもそも昨今の世の中では、それはもはやタブーですらない。 瞬に尋ねられたことに、星矢と紫龍は答えなかった。 瞬にここで答えを与えるべき人物は、自分たちではないことを彼等は知っていたのだ。 瞬に答えを与えるべき男――は、瞬に 瞬が、到底信じ難いと言わんばかりに、その瞳を大きく見開く。 瞬のその様子を見た星矢は、瞬のあまりの頓珍漢振りに、さすがに疲れの色を隠せなくなってきたのである。 「そーゆーことも あんの。氷河はおまえが好きなの。ホモは嫌だの、普通じゃないだの、目的はアレだけだの、言いたいこと言われて、氷河はこれでも傷付きまくってたんだぞ」 後半は推測だったが、自分の推測が的外れなものだとは、星矢は毫にも考えなかった。 むしろ表面に出さないだけ、氷河の傷心と落胆は大きいものだったろうと、星矢は確信していた。 瞬が、困惑した目をして弁解を始める。 「ぼ……僕、そんなつもりは……。僕はただ――」 瞬は、自分を軽蔑するために、わざときつい言葉を選んで“そういう人たち”をなじってきたのだ。 氷河と抱きしめ合いたいという目的を持っていたのも、氷河ではなく瞬だった。 氷河を弾劾するためではない。 氷河の幸福と平穏を守るためだった。 氷河のために――氷河に“普通”でいてもらうため、彼を“そういうの”の一人にしないため、氷河を困らせないため、すべては氷河のために――瞬はそうした。 そのつもりだったのだ。 そして、氷河も――彼もまた、瞬のために、これまでずっと沈黙を守り続けてきた。 だが、もう、そんな苦しい沈黙を自らに強いる必要はない。 瞬の不可解な行動の訳を知らされた氷河は、瞬のために自分がどういう行動をとるべきなのかを、今では知っていた。 だから、長く続けていた沈黙を破って、彼は瞬に問いかけたのである。 「瞬、おまえを心から好きで、おまえのためになら命も惜しくないほど、おまえを思っている氷河という男がいるんだが、おまえはその男のために普通でなくなる勇気を持つことができるか」 「あ……」 うずくまるようにソファに身を沈めていた瞬の前に 僅かに上体を傾けて立った氷河が、その右の手を差し出し、瞬がその手の持ち主を恐る恐る見上げる。 彼の眼差しがたたえているものが何なのかを認め、瞬の瞳は一瞬ぱっと明るく輝いた。 すぐに、その明るさを吸い取ったような涙――つい先程までのものとは きらめきの違う涙――が、瞬の瞳からあふれてくる。 もう我慢することはない。 自分を偽り続ける必要はないのだ。 「氷河……いくらでも!」 氷河が瞬の手を引いたのか、瞬が氷河に飛びついていったのか、それは聖闘士の目にも判断できないような素早さだった。 星矢と紫龍が気付いた時、“普通であること”を放棄した二人の聖闘士は、仲間たちの目の前でしっかりと抱き合っていた。 |