「何をしている」
独特の響きを持つ声に咎められ、瞬はこの宮の主が聖域にいることを知った。
「あ、いらしたんですか」
振り返ると、乙女座バルゴの黄金聖闘士であるシャカが、長い金髪を陽光に輝かせて、そこに立っていた。
「勝手に入り込むな」
「すみません」

不法侵入者を咎める言葉でも、黄金聖闘士以外の人間に彼が声をかけることは“驚くべきこと”なのだそうだった。
時折顔を合わせる下働きの者たちにシャカと交わした会話の内容を語ると、瞬は彼等にいつもそう言われた。
『きっと道端に咲いてる野の花に声をかける気分で、話しかけてるんだよ。相手が白銀聖闘士でも、あの人は絶対に自分から声をかけることをしないんだから』
と。

聖衣を身につけているところを見ると、これからアテナの許に赴くことになっているのだろう。
しかし、特に急いでいるようには見えなかったので、瞬は自分の知りたいことを彼に尋ねた。
「この庭――ここって昔はあの木だけじゃなく、もっといろんな木が植えてありました?」
「この木だけだ」
「ほんとに?」
「何度同じことを聞けば気が済むんだ。君には記憶力というものがないのか」
いつも何かに腹を立てているような声音。
瞬は、だが、彼のそんな態度にも口調にも慣れていた。
この世に生きている人間たちの醜悪と暗愚が腹立たしいのか、彼はいつも機嫌が悪いのだ。

つまり、彼はいつも通りの彼だった。
殊更恐れる必要はない。
瞬は、到底親しみやすいとは言い難い彼の言葉に怖気おじけることなく首肯した。
「僕、記憶力、あまりないみたいなんです。自分の記憶が何年分も抜け落ちてるんじゃないかって感じることもあるくらい。僕は本当にずっと聖域で暮らしていたのかと、時々思う……」

素直に記憶力の不確かさを認めたのが功を奏したのか、シャカは少し口調を和らげた。
彼は、己れの愚鈍を自覚している人間には好意的な哀れみを覚えるそうで、不必要に攻撃的になることはなかった。
彼が最も嫌うのは、自らの愚かさに気付いていない高慢な人間たち――であるらしい。
彼自身はそう言っていた。

「まあ、そういうこともあるだろう。人間は、自分の見聞きしたものをすべて記憶として残しておくと、新しい事柄を記憶する場所を得られないものだというし」
まるで自分は人間ではないような口振りである。
にしても、彼が他人の意見を認め、譲歩することは珍しい。
瞬は彼の譲歩に力を得て、少し図々しくなった。

「僕、ずっと不思議に思っていたことがあるんですが、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「あの……ここは沙羅双樹の苑って言われてるのに、あるのはあの沙羅の樹が1本だけですよね。看板に偽りありだと思いません?」
シャカのこめかみが、ぴくりと引きつる。
それまで固く閉じていた両眼の片方だけを薄く開けて、彼は瞬の姿をその視界に映した。

「沙羅双樹は、お釈迦様が亡くなった時、その臥床の四方に同根の2本ずつの沙羅の樹があったから樹なんでしょう? でも、ここには沙羅の木は1本しかない。なのに、ここは双樹の苑。ここには以前はもっとたくさんの木が植えてあったのかもしれないですよね」
「それを私がド忘れしているとでも言いたいのかっ!」

シャカの目が完全に開く。
どうしてこんなに感情的で可愛い人間を 人々が畏怖するのか、瞬にはよくわからなかった。
「そうじゃなくて――」
瞬が知りたいことは、最近のことではなく、昔のことだった。
瞬がまだ幼い子供だった数年前、シャカが乙女座の黄金聖闘士として この宮の主になる以前、この庭は今とは違う様相を呈してたのではないか――それが瞬の確かめたいことだったのだ。

癇癪を起こした子供を見詰めるような瞬の眼差しに気付き、無力な子供相手に激したことを恥じたらしい。
軽く咳払いをすると、彼は再び目を閉じた。
「しかし、君はそんなことを よく知っているな。仏教に帰依する気にでもなったのか」
「教皇の間の図書室で調べました。気になったから」
「勉強熱心なのはよいことだ」
「ありがとうございます」

シャカは勤勉な人間には至極好意的である――と、瞬は感じていた。
もちろん、『怠惰な人間に対するよりは』という相対的な意味で、ではあるが。
要するに彼は、自分の身の程を正しく自覚している人間には、それなりに接する気持ちがあるのだ。
瞬は自分にうぬぼれる要素を全く持っていない人間で、だからこそシャカは自分と言葉を交わすこともしてくれるのだろうと、瞬は思っていた。

それはさておき、この庭は、シャカが知っている限り、双樹の苑であったことはないらしい。
沙羅の樹は、以前から1本だけだったのだ。
瞬は、少々の落胆を覚えた。
「もしかしたら聖域じゃないのかな……」
「何がだ」
「僕の探してる場所」
「君が探している場所?」

「ええ。聖域以外で、僕が行きそうなところで、もっと緑がたくさんあるような場所に心当たりはありません? 高木だけじゃなくて、低い潅木も植えてあって、白い花が咲いてて、木はもっと湿潤な地方の種類で――」
「どこだ」
シャカが短く問うてくる。
が、瞬に答えることができるはずがない。
それを知りたいのは瞬の方だった。

「僕はそこで誰かと隠れんぼをしてるんです。もしかしたら、遊んでたんじゃなくて隠れて泣いていたのかもしれない。とにかく僕は、緑の葉をいっぱいつけた木の陰にうずくまってるの。そんな僕を誰かが見付けてくれる。僕は嬉しくて、その人に飛びついていくんです。でも、それが誰だかわからない」
「夢でも見たんだろう」
「ええ。夢の話なんですけど」
瞬が正直に答えると、シャカは再び そのこめかみを引きつらせた。
彼は、瞬がもっと現実的な話をしているものと思っていたらしい。

「でも、全く知らない場所を夢に見ることができるとは思えなくて……」
あの庭に自分は実際に立ったことがあると 瞬が思うのは、そのせいだった。
見知らぬ場所をあれほど鮮明に思い描けるほど、自分は想像力に恵まれた人間ではない――と、瞬は自覚していた。

「僕の記憶力が頼りないだけで、僕がもっと小さかった頃、聖域の皆でどこかに旅行に行ったことはありません? 黄金聖闘士たちの苦労をねぎらうための慰安旅行とかに、僕を連れて」
「あるわけがないだろう。君はアテナの聖闘士を、我々黄金聖闘士を何だと思っているのだ! 慰安旅行だと !? 黄金聖闘士が打ち揃って、温泉につかりに繰り出したとでもいうのか!」

火山国であるギリシャでは古代から温泉医療が盛んだった。
瞬の推察はさほど突拍子のないことではないというのに、シャカは立腹している。
瞬には、だが、シャカの憤りの訳がわからないでもなかった。
彼は孤高を愛し、それがたとえ信頼の置ける仲間たちとでも馴れ合うことが嫌いな男なのだ。
彼の価値観を尊重し、瞬は素直に謝罪した。

「すみません。今日は何か僕にご用はありませんか。僕、それを聞きにきたの」
本来の目的をシャカに告げる。
シャカは いつのまにか両目を開けてしまっていた。
彼が、苛立たしげに、そして吐き出すように瞬に告げる。
「することがないのなら、アフロディーテの薔薇園の世話でもすればよかろう。最近、薔薇の葉に虫がつくと嘆いていた」

「ほんとですか? なら、双魚宮に行ってみます! じゃあ、また。お邪魔しました!」
瞬は彼の勧めに従い、これ以上彼の機嫌を損ねないように、急いで踵を返した。
どういうわけかシャカがますます不機嫌そうな顔になるのが見えたのだが、瞬にはその訳がわからなかった。






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