シャカは、同輩たちにどう思われようと構わない気分になっていた。 瞬をアンドロメダ座の聖闘士に戻す必要はない。 シャカにとって瞬は、“最も神に近い男”に畏怖の念を抱くことなく、物怖じもせず意見してのける稀有な人間だった。 興味深いから側に置きたい。 それだけのことなのだ。 己れのその願いを実現するためには、何よりも瞬の同意を取りつけることが肝要である。 だから、シャカは瞬に水を向けてみたのである。 特に用があるわけでもなさそうなのに沙羅双樹の苑に佇んでいる瞬に向かって、 「どうだ。この苑が気に入ったのなら、いっそ、ずっとこの苑の世話をして暮らすというのは」 と。 「世話って……。この苑は もともとほったらかしでしょう」 「それはそうだが」 憮然としたシャカの返答に、瞬がくすくすと含み笑いを洩らす。 そして瞬は、苑の中央にある沙羅の木に切なげな視線を投げた。 「――たった1本の木。あなたみたい」 「なに」 「そして、僕みたい」 小さく呟き、俯き、そして瞬は再び乙女座の黄金聖闘士の上に視線を戻した。 「寂しい樫の木の歌、知ってます? 山の上に樫の木が1本 立っているんです。寂しがりやの樫の木は、自分と一緒に暮らしてほしいって風に頼むんですが、風はどこかに消えてしまうの」 「知らんな。どこの歌だ」 問われた瞬が、一瞬呆然とする。 それから瞬は、その質問を投げかけてきた男にではなく、自分自身にその事実を知らせた。 「知らない……」 自分がどこでそんな歌を覚えてきたのかを、瞬は知らなかった。 頼りない――あまりに頼りなさすぎる自らの記憶。 幼い頃から聖域で暮らしてきた記憶はある。 だが瞬にはそれは、壊れかけた記憶媒体に何者かの手で無理矢理上書きされた映像データのように 人工的なものに感じられてならなかった。 上書きされる以前のデータが、時折表面に現れて、自分自身が刻み込んだ元のデータを思い出せと、瞬に迫ってくるのだ。 そのせいで瞬は、ここにいる自分は本来の自分ではないと感じてしまう。 そんなことがあるはずはない――というのに。 「僕は一人だ」 瞬の口を突いて出た言葉は、瞬自身にも思いがけないものだった。 シャカが、ゆっくりと 眉をひそめる。 「何を言う。アテナの聖闘士の中でも最高位の黄金聖闘士たちが皆、おまえのことを気に掛けている。アテナまでもが、だ。アテナのために戦うこともできない無力な子供をだぞ。こんな贅沢な環境にいる人間が他にいるか」 「そうですね……」 『現状を認め、今の幸運を受け入れろ』というシャカの言葉の意味と、そうすることの益は わかる。 なぜ自分はこんなにも恵まれた境遇にあるのかと不思議に思うほど、瞬は恵まれた人間だった。 その境遇に疑問など抱かず、その境遇を甘受できれば、無為無力であるにも関わらず 聖域で特別待遇を受けている幸運な人間として、自分はここに立っていられる――ということは瞬にもわかっていたのだ。 だが――。 「わかってる。僕の周りにいる方々は、皆さん、強くて優しくて尊敬できるし、信頼できる方々ばかりだ。でも、寂しいの。自分は一人ぽっちだっていう気がしてしまうの。あなたもそうなんでしょう?」 「……」 瞬に問われたことに、『そうだ』と答えることは、シャカにはできなかった。 その孤独の感覚が 自分と瞬を結びつけているものだと認めることが、誇り高い乙女座の黄金聖闘士にできるはずがない。 シャカは、瞬に問われたことに答えなかった。 代わりに、瞬の幸運を再度瞬に言いきかせる。 「孤独を恐れることができる人間というのは、幸福な人間だ。人を愛し愛され、信じ信じられることを知っている人間、そういう状態を自然と感じることのできる人間だけが孤独を恐れる」 自分がいかに幸運な人間であるかを知り、認めろ――。 シャカがそう言って、甘ったれた人間を責めることは至極当然のことだと、瞬は思った。 なぜ自分は素直に彼の言葉に頷くことのできないのか――とも思う。 しかし、実際に瞬は彼に頷くことができなかった。 「わかってます。僕は分不相応に恵まれた幸運な人間だ。理屈ではわかってる。でも、それを実感できないんです」 瞬という人間の幸運と幸福を、瞬は認識していた。理解してもいた。 それでも――。 「僕は、あの緑の庭に帰りたい。あの庭に帰ることができれば、僕は自分が幸福な人間だということを確信できるような気がする。僕は――」 どうしても――どうしても、どういうわけか、ここにいる自分は本来の自分でないような気がするのだ。 そう“感じる”ことは、瞬自身にも止められなかった。 自分を幸福な人間たらしめる愛も信頼も、すべてがあの庭にあるような気がしてならない――のだ。 |