「なあ、瞬」
無実の罪――しかも、この上なく卑劣で下劣な罪――に陥れられようとしている男は、ショックで思考力の低下が著しく、話にならない。
氷河の場合は、彼が瞬を疑うことができないことが、その混乱を更に大きくしているようだった。
何らかの原因で意識を失った自分が、自分でも気付かぬうちに、何かとんでもないことをしでかしているのではないかという疑念を完全に払拭できないことが、彼の不幸だった。
瞬を疑いたくない彼は、どうしても自分自身を疑わないわけにはいかなかったのである。

しかし、星矢と紫龍はそうではなかった。
瞬の善良と純粋を信じていたい氷河とは違って、彼等は瞬の前でも客観的視点を失うことはなかったのである。
「氷河が本当に訳わかってないみたいだから、訊くけどさー」
「本当は、おまえの方が何かしたのではないのか?」
「どうして僕が」

星矢と紫龍に二人がかりで問われた瞬は、自分が彼等にそんなことを問われる理由がわからなかった。
そんなことをして、自分にいったいどんな得があるというのか。
瞬の知らない“得”を、だが、星矢と紫龍は知っていた。
「おまえ、氷河を好きだろ?」
「……」
星矢に問われたことに、瞬は『否』と答えることはできなかった。
それは事実であったし、瞬は嘘をつく行為が嫌いだった――というより、瞬は嘘つくことができない人間だったのだ。

嘘をつかないために否定の言葉を口にせず、瞬は逆に星矢に問い返した。
「どうして知ってるの」
「どうしてってもなー……」
瞬にそんなことを尋ね返された星矢は、こっそり紫龍と視線を見交わすことになったのである。
それは、瞬の様子を見ていればわかることだったし、たとえ瞬がこれまでその気持ちを完璧に隠し通せていたとしても、昨日今日の瞬の態度を見ていれば、それは誰にでも容易に察することのできる事実だったのだ。

好きでもない男の横で全裸で目覚めることになった人間が、好きでもない その男と平気で言葉を――たとえそれが弾劾や非難の言葉であったにしても――交わしていられるはずがない。
そういう場合、特に瞬のように潔癖症の気がある人間は、相手の側に近寄ることすらできないと考えるのは、実に妥当な行為なのだ。

「いつまで経っても煮え切らない氷河に腹を立てて、さっさと既成事実を作っちまおうと考えたとかさ」
「実際に何があったかどうかはどうでもよくて、氷河に責任をとらせることで、なし崩し的に そういう仲になることを目論んだとか」
星矢と紫龍の推理に驚いて、瞬はその瞳を見開くことになった。
氷河を手に入れるのに、そういうやり方があることを、瞬は今の今まで考えたことがなかったのである。

相手が自分を好きでいてくれると確信できている人間になら、そういう、ある意味強引に過ぎることもできてしまうのかもしれない――と思う。
だが、瞬にはそれは到底実行できることではなかった。
そんなふうに氷河の意思を無視するようなことをして、氷河に嫌われてしまう事態を招くのは恐ろしかったし、何より瞬は自分が氷河に好かれていると確信することができていなかったのである。

「じゃあ、なに? 僕が裸の氷河を担いで、氷河の部屋から僕の部屋に よいしょよいしょと運んだとでもいうの?」
昨日は氷河の切り札だったものが、今日は瞬の切り札になる。
そう反論されると、星矢も紫龍もそれ以上瞬を問い詰めることはできなかった――しても無駄だとわかった。
瞬は嘘をつけない人間であるから、瞬が『自分は何もしていない』というなら、それは疑いようのない事実なのだ。

しかし、星矢と紫龍には、氷河が嘘をついているのだとも考えにくかったのである。
氷河は瞬と違って嘘をつけない男ではない。
だが、同時に瞬に被害が及ぶような嘘をつく男でもなかった。
もし こんなふうに瞬が仲間たちに疑われているとうことを知ったなら、氷河はためらいもせず、この悪事を企んだのは自分だったと嘘をつくだろう。
その点に関してだけは――瞬を守ろうとする氷河の意思に関してだけは――星矢と紫龍は氷河に対して絶対の信を置いていたのである。

謎は誰にも解けぬまま、翌日瞬は、再び氷河のベッドで目覚めた。
前日、前々日同様、一糸まとわぬ姿で。
一糸まとわぬ氷河の横で。
「俺は用心のために、夕べはパジャマを着て寝たんだ! なぜ裸になってるんだっ」

不可解、理不尽、摩訶不思議。
たちの悪い奇跡としか言いようのない、この事態。
怒声を響かせる氷河の横で、瞬はなぜか ひどく悲しい思いで瞼を伏せることになったのである。






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