そういう訳で、天馬座の聖闘士と龍座の聖闘士は、瞬の要請を受け、氷河詰問の場に立ち会うことになったのである。
とはいえ、彼等は本当に立ち会っただけだった。
星矢たちが瞬の氷河面詰に助力するまでもなく、瞬の涙ながらの訴えに、氷河はあっさり降伏してしまったのだ。
『氷河より瞬(の涙)の方が はるかに強い』という星矢と紫龍の認識は、やはり正しかったらしい。
押し倒されさえしなければ――という条件はつくにしても。

そうして、氷河が語った 彼の“おかしさ”の原因。
それは、驚くべきものだった。
「神が――俺を利用して、地上を滅ぼそうとしている。この世界を守るためには、俺が死ぬしかない」
氷河はそう言ったのである。
冗談めいた色の全くない真顔で。
星矢にも紫龍にも、そして瞬にも、氷河が嘘を言っているようには到底見えなかった。

「それって、ポセイドンかハーデスが、またぞろ活動を開始したってことか?」
顔を苦らせながら そう問うた星矢に、氷河ではなく紫龍が、首を横に振ってみせる。
「いや、それはないだろう。ポセイドンとハーデスはアテナの手によって封印済みなんだからな。今度の神は別の神と考えるのが妥当だ」
「二度あることは三度あるって言うけど、毎回おんなじ手で、神様たちもよく飽きないな」
「学習能力がないんだろう」
「よりにもよって氷河を選んだとこは新しいかもな」
「なかなかいい手だ。氷河なら、どんなにおかしな行動をとったとしても、誰も気にとめない」

星矢たちが暴言といってもいいような言葉を吐き続けるのは、氷河の真剣な様子に驚いたせいもあったろうが、それとは別に、この驚くべき現状を冗談によって緩和したいという気持ちが、二人の中で働いていたせいもあったかもしれない。
が、この深刻な場面を冗談で彩られることは 氷河の本意ではなかったらしく、彼は言いたいことを言ってくれる二人の仲間たちに忌々しげな目を向けた。

「俺は貴様等なんかはどうなってもいい。この地上に有象無象している人間共のことも知ったことじゃない。だが、俺は、瞬にだけは生きていてほしい。そのために、俺は――」
「死ぬ覚悟を決めたってのかよ」
「そうだ」
氷河は既に悩み尽くし、考え尽くしたあとだったのだろう。
星矢の問いかけに首肯する彼の態度には、もはや一瞬のためらいも迷いも見い出すことはできなかった。
ごくあっさりと、彼は彼の仲間たちに頷いた。

「氷河……」
氷河の告白によって与えられた驚愕から まだ冷めきっていなかった瞬は、氷河の淡々とした様子に、かえって事態の深刻さを認識したらしい。
氷河が死ぬ――氷河は死ぬつもりでいるのだ、と。

無論、それは、命懸けの戦いを戦い続けているアテナの聖闘士には必携の覚悟だった。
その覚悟は、瞬とて いつもその胸中に抱いている。
だが、なぜ氷河だけが死ななければならないのか。
瞬にはそれは受け入れ難い現実、受け入れ難い未来だった。
瞬の瞳に、先程までの涙とは全く違う涙がにじみ始める。
そんな瞬から視線を逸らし、氷河は少々自虐的な笑みを口許に浮かべた。

「いや……本当は、貴様等にも生きていてほしい。俺の知らない有象無象の人間共にも滅んでほしくない」
「……」
「自分でも意外だが、こういう事態になって俺は、自分が 俺以外のすべての人間に生きていてほしいと願っていることに気付いた」
「な……なに、普通の人間みたいなこと言ってんだよ!」
瞬の言っていた通り、やはり氷河は“おかしく”なってしまっている。
彼らしくなく、あまりにも真っ当なことを言い募る氷河に困惑した星矢は、彼にかけるべき言葉を どうしても思いつけなかった。

氷河はもっと我儘な男だと、星矢は思っていたのである。
実際にはアテナの聖闘士としての心構えができているのだとしても、氷河は最後まで我儘を装い続ける男だと思っていた。
氷河本人にも、それが装った我儘なのか、真実の我儘なのかの判断がつかないほどに、我儘な言動を貫く男だと。

瞬だけが生きていればいい、瞬が側にいてくれさえすればいいと堂々と公言し、もちろん、彼が死んだあとには、瞬がいつまでも亡き恋人を思い続けることを望んでみせるのが氷河である。
自分だけが死んで、生き残った瞬が自分以外の誰かを愛するようになる事態など決して受け入れられるものではないだろうから、氷河は決して死なない男でもあると、星矢は確信していた。
だというのに――だというのに、これではまるで本当に氷河が死んでしまうようではないか。

星矢の混乱を見通したように、紫龍が低く呟く。
「死が確実に目の前に見えてくると、人はそんなふうになるものなのかもしれないな。自分のことよりも、生き残る者たちのことを考える――」
「で……でも、そんなの誰だってそうじゃん。氷河に限らず、俺たちだって、明日死なないとは限らない。氷河より俺の方が先に死ぬかもしれない。なのに、人は――」
どうして人は、自分のことばかり考えるのか。
そして、どうして、よりにもよって氷河が、瞬だけのことではなく、残される者たち・・のことを思うのか。
星矢には、得心できなかった。

「死を、真剣に見据えている人間は少ないんだろう。多分」
星矢の疑念に、紫龍が静かに答える。
彼は、そうして、改めて氷河に向き直った。
「立派な覚悟だ。見直した。だが、今はまず、おまえが生き延びるための手段を考えた方がよくないか? おまえがもし本当に 地上の存続のために死んでしまったとして、残された瞬が幸せでいることは もちろん大事なことだし、おまえがそれを望む気持ちもわかる。だが、おまえたちが一緒に生きて幸せでいられるなら、その方がずっといいじゃないか」

それは、氷河の友人として仲間として 心からの願いであったし、希望の闘士であるアテナの聖闘士としても、言ってみれば、実に自然な提案だった。
だが、紫龍に対する氷河の答えは、
「無駄だ。俺が死ぬことでしか、あいつ・・・の野望を打ち砕くことはできない」
という、諦観に満ちたものだったのである。

氷河はこんなに諦めのいい男だったろうか――? と、紫龍は訝ることになった。
死んだ者たちに魅入られていた頃の氷河なら いざ知らず、今の氷河――瞬を手にいれた今の氷河――は、生きているからこその幸福を知っており、その価値も認識している。
生への執着は人の数倍も強いはずなのだ。
その氷河を、ここまで諦めさせ、抵抗の意思を奪うほどの『あいつ』とは、いったい何者なのか。

今はまだ姿も見えず、名もわからない敵に、星矢と紫龍は尋常でない不安と不気味を感じることになったのである。
瞬はといえば、言葉もなく――だが、どんな言葉よりも雄弁な涙で、その瞳は潤んでいた。






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