女神の寛容と期待に、できれば この地上に生きる人間すべてで応えたい。
黄金聖闘士たちのその思いは強かった。
が、それはそれとして、である。
アテナの聖闘士の中で最も下位に位置する青銅聖闘士たちの為し得たことへの黄金聖闘士たちの驚きは非常に大きかった。

「それにしても奇跡だ。いったいなぜ」
「『くえーくえー』と『ちゃりんちゃりん』だぞ」
「星矢たちにもわかっているようだったが……」
アイオリアの呟きを聞いて、星矢はもちろんと言うように頷いた。
星矢たちには、もちろん、氷河と瞬の交わしている言葉の意味がわかっていた。
正確には、こういう事態に陥った時、氷河がどういうことを考え、どういう発言をするのかが、彼等にはわかっていたのだ。

「俺たちの言葉が通じないのなんて、これが初めてのことじゃないからなー。氷河が城戸邸に来た時は、言葉がまるで通じなくて、互いの意思を伝え合うのに散々苦労したし。氷河の奴、日本語は『どうも』さえ知っていればどうにかなるって言われて 日本に連れてこられたらしくて、最初は『あいうえお』も知らなかったんだぜ」
黄金聖闘士たちを驚嘆させた驚異的事実は、青銅聖闘士たちにとっては奇跡でも何でもなかった。
それは、彼等がかつて一度経験してきたこと、一度通ってきた道だったのである。

星矢が持ち出してきた昔話に、龍座の聖闘士は懐かしげに頷いた。
「言葉が通じない頃には、氷河が、どこぞのたそがれた老人のように日光浴ばかりしているのが不思議でならなかったな」
「氷河の気持ちになって考えてるうちにわかったんだよね。北の国は寒くて、寒いのはお日様が遠かったり、お日様が地上を照らしてる時間が短かったりするせいで、だから、氷河のいた国では日光がすごく大事なものだったんだろうって」
「3日くらい毎日話し合って、やっとわかったんだよな。俺たち、ロシアって国がどこにあるのかさえ知らなかったから、地図帳広げるところから始めた」

それは、当時の彼等が、共通の言葉というツールを持たない者同士が理解し合うことの困難を知らない子供だったからこそ、挑むことができたことだったのかもしれない。
ともかく、幼い頃、青銅聖闘士たちは、言葉の通じない異邦人を理解するための努力をしたのだ。

「その3日のうちに、俺は日本語の挨拶をマスターし、1から100までの数を日本語で数えられるようになったぞ」
「僕たちを名前で呼んでくれるようにもなったよね」
「少しでも早くおまえと――おまえたちと話せるようになりたかったんだ」
「うん……」

幼い頃の記憶が蘇ってきたのだろう、瞬は昔を懐かしむように目を細めて頷いた。
それから、口許と目許に、ひどく嬉しそうな笑みを浮かべる。
「氷河に初めて『おはよう、瞬』って言ってもらった時、僕、すごく嬉しかった……」
それはただの挨拶である。
誰もが、何気なく、意味すら考えずに使っているお決まりのフレーズにすぎない。
そんな他愛のない言葉でも、気持ちを伝え合うことができるということは、当時の二人には喜ばしく素晴らしいことだった。

「おはよう、瞬」
その一言を初めて口にした時、氷河がどれほど緊張していたのが手に取るようにわかったから、瞬はなおさら嬉しかった。
自分たちが一方的に氷河を理解しようとしているのではなく、氷河もまた、自分たちに歩み寄ろうとし、そのために努力してくれたことがわかったから。

わかりあえることの喜びを、幼い頃の経験から、青銅聖闘士たちは身をもって知っていたのだ。
その上、彼等は、命懸けの戦いを共に――個人プレイというよりは共闘で――戦ってきた仲間たちでもある。
言葉がなくても気持ちが通じ合うのは――完全に、とまでは言えないにしても――それは当然のことなのかもしれなかった。

人と人が理解し合うために、言葉がいかに大切なものであるか。
そして、理解しようとする心を伴わない言葉がいかに無力なものであるか。
わかり合ってしまえば 言葉が不要になることもあるほど、わかり合おうとする心は、大切で重要なものなのだ。

青銅聖闘士たちが幼い頃の出来事を あまりに嬉しそうに、あまりに懐かしそうに語るので、黄金聖闘士たちは少なからず しんみりした気分になってしまったのである。
そんな素朴な喜びを、彼等は知らなかった。
自分たちが強くなることこそが平和の実現に近付く最も重要な事柄と考え、信じ、己れの心身を鍛えることにのみ腐心・専念してきた彼等は、平和の実現のために自分以外の誰かを理解したいという望みを抱いたことがなかった。
強い者は、黄金聖闘士は、孤高の存在であり、その崇高な志は凡百の徒には理解されずともいい――と、自らに鞭打つつもりで考えていた彼等は、その実、無意識のうちに自分たちが守ろうとしている者たちを見下していたのだ。
人間たち・・を信じ、人間たち・・というものに期待している女神アテナに従って戦う アテナの聖闘士でありながら。

これでは、黄金聖闘士は、『目的と力を持ちながら、コミュニケーション能力を欠いていた』どころか、『そもそもの目的を正しく理解できていなかった』ことになる。
何やら暗鬱な表情になった黄金聖闘士たちに気付き、瞬は少々慌てることになったのである。
瞬は、自分が迷うタイプの人間であることを自覚しているせいもあるが、元来、周囲のことに囚われず 目的に向かって一途に突っ走る人間が好きだった。
だから、そうできる者たちには、明るくまっすぐに目的に向かい続けていてほしかったのだ。
彼等の気を引き立たせるために、何気なく話題を脇に逸らす。
「聖闘士になって日本に帰ってきてからも――そうだ、氷河はどうして踊るのかって、みんなで話し合ったりしたんです」

「わかったのか !? 」
瞬の提供した話題に最も素早く食いついてきたのは、氷河の師である水瓶座アクエリアスのカミュだった。
なにしろ彼は、氷河に“あれ”を教えた聖闘士という汚名を着せられて、これまでに幾度も色々な場面で屈辱的な嘲笑を浴びせかけられてきたのだ。
瞬が、縦にとも横にともなく首を振り、氷河の師に答える。

「ダイヤモンドダストを撃つ時に最も強い反動を受けるのが腰だから、腰周りの身体慣らしが必要なんだろうという結論に落ち着きました。もっとも、あのダンスは氷河も無意識に踊ってしまってるらしくて、それが正解かどうかはわからないんですけど。最近 氷河が踊らなくなったのは、それだけ腰と脚の筋力が増して柔軟になったからなんじゃないかと」
「毎晩おまえ相手に腰の反復トレーニングをしている成果が現れてきたんだろう」
「氷河が瞬を好きだってのも、瞬も氷河を好きだってことも、みんなで話し合ってるうちにわかったんだよな」
「氷河が情緒不安定に陥って、自分が抑えられない、瞬に危害を加えそうで恐いと言うので、皆で原因と解決策を考えた」

「そんなことまで皆で話し合うのはどうかと思うが……」
紫龍と星矢の補足説明を受けたカミュが、さすがに渋面を作る。
しかし、そう呟く彼の瞳は、つい先程までと打って変わって明るい色を呈していた。
『氷河が無意識に“あれ”を踊っている』というのなら、それは誰かに教えられたものではないということになる。
彼の仲間たちの前で、ついに今日、“白鳥座の聖闘士にあの踊りを教えた男”という彼の汚名は返上されたのだ。

なるほど、皆が一堂に会して言葉を交えるという行為には、大いなる益がある。
氷河もそれで仲間内の“公認”を手に入れることができたからこそ、人前で堂々とアンドロメダ座の聖闘士に絡むこともできるのだろうと、カミュは得心した。

「あなた方 黄金聖闘士のひとりひとりがどんなに強くても、その心の向かうところがばらばらで、仲間たちだけでなく他の誰の理解も得ることができないのであれば、特に地上の平和の実現などという大きな理想を実現することは、まず無理なことなのよ。全体のために自分の意思を抑えろと言っているのではないの。自分以外の人間の考えも知ろうとし、そして尊重すべきだと言っているの。完全に理解し合うことはできなくても、理解しようという気持ちを持っていることを相手に知らしめるだけでも、状況は随分違ってくると思うのよ。嘆きの壁を壊すために、一つにまとまることのできた あなた方になら可能だと思うの。世界中の人々が同じ理想に向かって一つになれるように促すことも」

個々人が尋常ならざる力を持つ黄金聖闘士。
その黄金聖闘士も、たった一人では冥界とエリシオンの間に立ちはだかる壁を打ち倒すことはできなかった。
幾人かの力を合わせても、それは不可能だった。
すべての黄金聖闘士が一つになることで、彼等は、人なるものが足を踏み入れることを頑なに拒む壁を打ち壊すことができたのである。

あの瞬間の表現し難い高揚感を思い出しながら、黄金聖闘士たちは今、“人間たち”を愛し信じる女神アテナの思い描く理想というものを、正しく その胸に刻みつけたのだった。






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