氷河と顔を合わせるのが つらい。
氷河の好きな手を見ることも苦しい。
何より、手以外に存在価値のない自分という人間が鬱陶しくてならない。
瞬がラウンジの窓から ぼんやりと絹積雲の漂う秋の空を眺めていたのは、氷河と自分に関わるものが多くある地上に目を向けたくなかったから、自分にも氷河にも関わりのないものだけを見ていたかったから――だった。

だが結局、何を見ても何を見なくても思い起こされるのは氷河のことばかりで、静かで穏やかな秋の空も、瞬の心を慰めてはくれない。
それでも瞬は、少しでも氷河に関わりのないものを求めて、深まりゆく秋の気配に意識を向けようと努めていた。

「瞬の奴、どうしたんだ?」
ラウンジに入ってきた星矢が、瞬の周囲の空気がいつもと微妙に違うことに気付き、肘掛け椅子で雑誌を眺めている紫龍に、低い声で問いかける。
紫龍も実は本よりも瞬の動向の方が気にかかっていたらしく、彼は瞬に聞こえぬよう星矢より更にボリュームを抑えた声で、ほとんど囁くように、その事実を告げた。
「夕べ、氷河とやったらしい」
「へ」

その言葉に、星矢はもちろん驚いた。
驚いた星矢が、紫龍が期待していたものとは少々趣の異なる反応を返してくる。
「まだだったんだ? 氷河の奴、意外に慎重じゃん」
その上、星矢の声は通常モードだった――つまり、低くも小さくもなかった。
紫龍がちらりと瞬の様子を盗み見て、現在の瞬が自分の思い以外のことには全く注意が向いておらず、星矢の声もその耳に届いていないらしいことを確認する。

その事実に安堵して、彼もまた少し声のボリュームをあげた。
「相手は瞬だぞ。氷河でも慎重になる」
一般的に見ても、瞬は特殊かつ特別な人間である。
冥府の王に気に入られるほど清らかな、だが紛うことなき殺人者。
人を傷付けることを厭いながら、戦うことをやめないアテナの聖闘士。
何より、その強さと脆さのアンバランス。
瞬に恋している氷河にとっては、なおさら特別な存在だろう。
彼が慎重になるのは至極当然のことだった。

「で? 慎重な氷河は、緊張しすぎてヘマでもやらかしたのか? できなかったとか、ヘタくそだったとか」
「何とも言えんな。そんなことを瞬に訊くわけにもいかないし。これまで慎重だった反動で、氷河が暴走し過ぎたということも考えられる」
「氷河って、周りのことに気を遣う奴じゃないからなー。瞬の身体を気遣わずに猪突猛進に瞬に突っ込んでいったとか――いや、まあ、うん、周りを見ないのはよくないよな」

瞬をさほど特別な人間だと思っていない星矢でも、瞬に関わることを下卑た言葉で表現することには きまりの悪さを覚えるらしい。
星矢は自分の発言を、かなり無理をしてごまかした。
「氷河も、それはおまえには言われたくないと思うぞ」
猪突猛進では氷河に後れをとらない天馬座の聖闘士が、紫龍の言葉にぷっと頬を膨らませる。
そのあとに続くだろう反論を遮るように、紫龍は再度 その視線を瞬の上に戻した。

「まあ、単に秋だからセンチメンタルに浸っているだけということもありえるしな」
冬はすぐそこまで迫ってきている。
夏には小さな林を形成していた城戸邸の木々も ほとんどの葉を落とし、今は寒々とした姿を寄せ合うようにして冬の到来に備えている。
瞬がセンチになっても納得できるような光景が、晩秋の水色の空の下には広がっていた。

「日が暮れるのも早くなってきたもんな。一日の日照時間が短くなると、冬季性鬱病なんてのが発症することもあるんだろ」
「瞬がか?」
「氷河がそんな病気になるよりは自然じゃん」
「それはそうだが」

氷雪の聖闘士が冬場に鬱になっていたら、彼には活躍の場がなくなってしまう。
氷河が慎重すぎるほどに重い腰をあげて瞬に迫り出したのも、彼の季節である冬が近付いてきたからに違いないと、星矢は勝手に決めつけていた。
常人とは逆に、これからが氷河の木の芽時なのだ。
だが、瞬は、これから長い雌伏の季節を耐える花の季節の聖闘士である。
ぼんやりと秋の空を眺めている瞬の横顔に全く明るさのないことが――むしろ愁いに沈んでいるように見えることが、星矢に気掛かりを運んできた。

「そういや、木の葉もほとんど落ちたな。……ちょっと探りを入れてくる」
「猪突猛進は避けろよ。それでなくても瞬はナーバスになっているようだ」
紫龍の忠告に片手をあげて応え、星矢は、それでも彼らしくまっすぐに、愁いに沈む瞬に向かって歩き出した。






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