火の側から引き離された瞬は、ラウンジで星矢と紫龍と氷河に取り囲まれていた。 ほとんど難詰するようにして瞬に事の経緯を白状させた三人は、それぞれに呆れ驚いた顔で、全身を縮こまらせるようにして椅子に座っている瞬を見おろしている。 最初に口を開いたのは星矢だった。 「だから、なんで、氷河がおまえの手だけが好きだなんて、そんな馬鹿な言い草を真に受けたんだよ! そんなことあるわけないだろ!」 星矢の怒声に同意して、紫龍が深く首肯する。 「氷河がおまえに惚れていることくらい、氷河を見ていれば誰にだってわかることだ。“手”と出掛けるのに、あんなに浮かれる男はいない。氷河が手フェチだというのならともかく」 さすがに瞬は、氷河を手フェチだとは思っていなかった。 だが、瞬は彼をマザコンだとは思っていたのである。 我が子を救うために その命を投げ出した若く美しい母親。 氷河が彼女を慕い続けるのは自然なことだと思うし、彼がその母につながるものに固執するのも当然のことだと思う。 彼が、母のそれに似た仲間の手(だけ)に恋することはありえること――と、瞬は思っていたのである。 そんな瞬の考えを見透かしたように、紫龍は今度は横に首を振った。 「おまえこそが、氷河をちゃんと見ていなかったようだな。氷河は、奴自身や他人が言うほどマザコンじゃないぞ。本物のマザコンが、自分のマザコンをネタに惚れた相手をものにしようなんて、姑息な真似を思いついたりするものか」 「……」 瞬が氷河を見ていなかったのは事実だった。 瞬が見ていたのは――これまでずっと見詰め続けていたものは――氷河が自分の手を見ているということだけだったのだ。 では、星矢や紫龍の言葉は正しいのか。 氷河は、母の手に似た手だけに恋していたのではなかったのか――。 瞬は、紫龍たちの言葉を信じたかった。 だが、仲間たちの言葉を信じることを、氷河の無言が瞬にためらわせていた。 その事実に気付き、星矢が焦れたように氷河の脇腹に肘をのめり込ませる。 「氷河、何とか言えよ!」 「あ……ああ」 それまで ひたすら呆然と 瞬の打ちひしがれた姿を視界に映していた氷河が、はっと我にかえったように顔をあげる。 そして彼は、驚きすぎて抑揚を失ってしまったような声で、低く呟いた。 「本気で手だけが好きなんだと思われているとは思っていなかった……」 ――腹の底から出る呻きのような呟き。 それは氷河には完全に想定外のことだったらしい。 「まあ、そうだよなー」 星矢が、こればかりは氷河に同感するしかないというような声を洩らす。 他のこと、他の時ならいざ知らず、この場合に限っては、常識的なのは瞬よりも氷河の方だった。 そんな仲間たちに、瞬がやっと反駁を始める。 「だ……だって、氷河はいつも僕の手のことばっかり……マーマの手のことばっかり……。僕はいつだってマーマの手のおまけだった……」 それが瞬を我が物にするための作り話だったとしたら、本当に氷河の母の手に似ているのかどうかも怪しい手の上に、瞬が涙の雫を落とす。 「瞬は氷河の言葉を信じただけとも言えるな……」 瞬に涙を見せられた紫龍は、さすがに瞬に同情の念を抱くことになったらしい。 彼は今度は姑息な策を弄した氷河の方を咎め始めた。 「瞬を責めるのは酷だ。実際のところ、瞬は素直に氷河の言ったことを信じただけで、この場合、責めを負うべきはやはり氷河の方だろう」 氷河が最初に、『俺はおまえが好きだ』と、ありふれてはいても誤解を生む危険のない告白をしていれば、瞬はこんなふうに思い悩むこともなかったのである。 それは事実だった。 そこに氷河が弁明を申し立ててくる。 「お……俺に言えるわけがないだろう! 瞬に優しくしてもらえるのが嬉しいだの、瞬が笑ってるのを見ると、つい ぼーっとなるだの、瞬が悲しそうにしていると抱きしめてやりたくなるだの、戦いが嫌いなのに戦っている瞬が壮絶に綺麗に見えるだの、そんな恥ずかしいことが、俺に言えるか! 俺は男だぞ!」 「言ってるじゃん」 絶滅危惧種の明治男のようなことを吠え立てる金髪男に、星矢は大仰に肩をすくめることになったのである。 日本に生まれ育った生粋の日本人より外国人の方が日本の伝統文化に価値を見い出している――というのは、ままあることなのかもしれないと、星矢は思った。 「だって、氷河は……!」 “そんな恥ずかしいこと”を当の氷河に言われても、それは瞬には にわかには信じ難いものだったのだろう。 『マーマに似ているから好きだ』という氷河の言葉は疑いもせずに信じた瞬が、ごく一般的な氷河の告白は、素直に受け入れる気配を見せなかった。 そんな瞬を、紫龍が遮る。 「瞬。手だけが好きなら、そもそも氷河はおまえと寝る必要はないだろう」 「そ……それはそうだけど」 「どう考えても、そうだ」 「け……けど、氷河は僕が納得せざるを得ないような理由をつけて……」 「そんな馬鹿げたことに、どんな理由がつけられるというんだ」 どう考えても“おかしい”氷河の嘘を、瞬はなぜそこまで頑なに信じることになってしまったのか。 紫龍はむしろ、瞬の頑迷の方が不思議でならなかった。 瞬が、どもりながら、紫龍の疑念に答える。 「ぼ……僕の手を綺麗に見せてるのは 肩から腕の線だだとか、僕の手を動かしてるのは僕の心臓だとか、僕の身体の手以外の何もかもが手につながってて、僕のすべてが手のためにあるみたいなこと言って、それで氷河は――」 「このド助平、んなこと言って、あちこち触りまくったのか」 「実に小ずるい嘘を思いつく男だな」 瞬が信じざるを得なかった氷河の言を、星矢と紫龍は、小ずるい助平男のたわ言として あっさり否定した。 おかけで、気負い込んでいていた瞬の意気は行き場を失い、空中分解することになってしまったのである。 それは、そんなにも他愛のない、思い悩む必要もない事柄にすぎなかったのか――と。 「俺は嘘を言ったわけじゃない!」 ド助平の一言で この切なる恋心を片付けられてはたまらない――と、氷河は思ったらしい。 自分に非があることを全面的に否定するつもりはないようだったが、氷河はあえて、再びの弁明を試み始めた。 「俺は嘘を言ったつもりはない。確かに、瞬の手は、その感触が優しいこと以外マーマの手に似たところはないが、瞬の手が綺麗なのは 瞬が生きているからで、生きている瞬が綺麗に見えるのは 俺が瞬を好きだからで、俺が瞬を好きになったのは瞬が優しいからで、瞬が優しいのは瞬が生きているからで――」 「おまえ、なに言ってんだよ。もっと要点をわかりやすくまとめて言え。そんなだから、瞬を誤解させちまうんだ」 全く要領を得ない氷河の言い訳に、星矢がうんざりしたような顔になる。 しかし、氷河は、それこそ必死だったのだ。 今度こそ自分の気持ちを瞬に誤解されることなく伝えようとして。 なにしろ彼は、 「俺は、生きている人間にこんな気持ちを抱いたのは、瞬が初めてだったんだ! どう言えばわかってもらえるのか、わからなかった……!」 ――だったのだ。 「氷河……」 氷河の必死の思いが瞬に通じないはずがない。 懸命にその思いを言葉にしようと努めている氷河を、瞬は瞳を見開いて見詰めた。 「最初は、俺が瞬を好きでいるほど、瞬が俺を好きでいてくれなくてもいいと思っていた。瞬に俺の気持ちを受け入れてもらえなくても、生きている瞬を見ていられるなら、俺はそれだけでも十分だと思っていたんだ。だが――」 「ちょっと粉をかけてみたら、思いがけず色よい返事が返ってきたんで、つい調子に乗ってしまったというわけか」 紫龍の言い草を、氷河がしぶしぶ認める。 「……嬉しくて、浮かれて、俺は、ただ瞬を見ているだけでは我慢できなくなってしまったんだ。何でもいいから理由をつけて、瞬を俺のものにしたかった……」 そうして利用を思いついたのが、自身のマザコンの風評だったとは。 恋愛の場面で、一般人なら ひた隠しにしようとすることを、氷河は逆手に取って自らの武器にした――ということになる。 「おまえって、ほんとに なんつーか……器用なのか不器用なのかわかんねー男だな」 心底から呆れ、そして半分感心したように、星矢は呟いた。 だが、やはり彼は不器用な男なのだろう。 素直に『好き』と言えばいいだけのところを、馬鹿げた策を弄したせいで、無駄にややこしくしてしまったのだから。 |