瞬は、聖域に程近い場所にある小さな村に住む、特に何ということもない少年だった。 貴族でもなければ、王族でもない。 祭司でもなければ、特に優れた能力を有しているわけでもない。 歳は15、6。 正確な年齢を知らないのは物心つくまえに親を失ったからで、瞬は、二親を戦で亡くした。 だが、それも特別なことではない。 戦の絶えることのないこの世界に、瞬のような境遇の子供はいくらでもいた。 いつかは この世界にある5つの大国のいずれの支配も受けていない唯一の場所である聖域に行き、アテナの聖闘士になりたいという望みを持ってはいたが、それも聖域の近くに住み、戦の悲惨を知っている子供なら、誰もが抱くごくありふれた望みだった。 だから、なぜハーデスが自分に目をとめたのかが、瞬にはわからなかったのである。 おそらく他の誰にもわからないのだろうと、瞬は思った。 それほどに、瞬はこの世界に生きる子供としては ありふれて平凡な子供だったのだ。 自分の身の上を思うほどに、瞬は、自分がハーデスに選ばれた訳がますますわからなくなっていった。 考えれば考えるほど、そんなことが実際に起こるはずがない――という気持ちが強まっていく。 いつ戦に巻き込まれないとも限らないが、少なくとも今 瞬の目の前にあるものは、静かで穏やかな春の農村の風景である。 それが平凡であればあるほど、平和であればあるほど、ハーデスの姿も言葉も幻めいていたように思えてならない。 野を横切り、村の入り口に戻ってきた頃には、瞬はあれは白昼夢だったのだと信じられるようになっていた。 ――が。 瞬の住む村の住人は、戦乱を逃れてあちこちから集まってきた子供たちを入れても数百人。 いつもなら、せいぜい鍛冶屋の鉄を打つ音や子供たちの歓声くらいしか音のない昼下がりの村が、今日は妙にざわついていた。 怪訝に思いつつ、瞬が村の集会所を兼ねている広場に向かうと、そこに100人をくだらない村人たちが集まっている。 まるで どこから登場するかわからない祭りの出し物を待ってでもいるかのように、彼等はそれぞれの方向を向き、数人ずつで何やらあれこれと話をしていた。 中の一人が出し物の登場に気付き、かすれた歓声をあげる。 人々のざわめきが一瞬途絶え、先程までの喧騒を思うと不思議なほどの沈黙が広場を包む。 最初に瞬に話しかけてきたのは、いつも瞬が集めた薬草と引き換えにパンを分けてくれる、村でも特に大きな家の女将だった。 「瞬。あんたに頼むと、何でも願いを叶えてもらえるってのは本当かい?」 「え?」 「あんたに頼めば、この世界を支配する王様にでも国いちばんの大金持ちにでもしてもらえるって」 いったい女将は何を言っているのか。 瞬は答えに窮し、その場に棒立ちになった。 そうしているうちに、赤ら顔の女将を押しのけて、別の若者が瞬に早口で語りかけてくる。 「俺は、王様になりたいなんて、そんな身の程知らずなことは願ったりしないぜ。ただ、ちょっと金が欲しいんだよ。一生遊んで暮らせるだけの」 「ちょっと! 割り込んでこないどくれよ! 瞬と話をしてるのはあたしだよ!」 女将のその甲高い声が、騒ぎの引き金になった。 村人たちが少しでも瞬の側に近付こうとして押し合いを始める。 「なに、大それたこと言ってるんだ! 俺は家だけでいい」 「あたしは自分のことなんて望まないよ。うちの息子が将来偉くなれるようにしてくれないか」 「みんな、望むことが小せぇな。俺は、この辺り一帯の領主になりたい」 「馬鹿者! そんな自分一人のことじゃなく、村全体が得することを願ったらどうなんだ!」 「じいさんが言うみたいに、立派な神殿建ててもらったって、誰も得しねーんだよ!」 口々に願い事を訴えてくる村人たちは皆 目を血走らせ、そして、誰もが殺気だっていた。 「あ……」 つい今朝方まで、貧しくささやかではあっても、それぞれに懸命にいつも通りの生活を営んでいた彼等の姿を覚えているだけに、瞬は彼等の豹変振りが信じられず、怯えることになったのである。 いったい彼等をこんなふうに変えてしまう何が、彼等の上に起こったのか――。 事情はわからないが、ともかく この場から逃げ出したい。 瞬はそう考え、逃げ道を探して周囲に視線を走らせた。 村人たちは、瞬を取り押さえようとはしなかったが、それでも瞬の周囲を取り囲み、自らの願いを叶えてくれるかもしれない者の逃亡を警戒してはいるようだった。 逃げ場はないと瞬が落胆した ちょうどその時、 「みんな、瞬から離れろ!」 という、やたらと威勢のいい声が村の広場中に響いた。 瞬には、それこそが神の声にも聞こえたのである。 声の主は、瞬と同じ身の上の――つまりは戦で家族と家を失い、この村に流れ着いた孤児仲間の――星矢だった。 その星矢が、人の群れの隙間を縫って瞬の側に回りこんでくる。 瞬の腕を掴むと、星矢は、わざと村人たちに聞こえるように瞬に言った。 「おまえが、こんな欲に目の眩んだ奴等の相手する必要はない。あっち行こうぜ、瞬」 「星矢、おまえ、お情けで村に住まわせてもらってるガキのくせに、抜け駆けするつもりかっ」 「俺が んなことするかよ! おまえらな、あんまり さもしい真似すると、ハーデスの怒りを買うことになるぞ。それでもいいのか!」 「う……」 星矢の脅しに、村人たちがひるむ。 その隙を衝いて瞬の手を引いた星矢は、群がる村人たちを押しのけて、広場から立ち去るべく歩を進めることになった。 「星矢、いったい……」 「いいから、今は怒ったような顔してろ」 そんなことを言われても、そんな顔をどんなふうにして作ればいいのかを、瞬は知らなかった。 幸い、突然 理解できない状況に放り込まれた瞬の顔は強張っていて、それが結果として星矢の指示に従ったことになったらしい。 村人たちは、今度は祟る神でも見るような目を瞬に向け、瞬から身を引いていった。 |