深い森の奥に隠れるように佇んでいた古い石造りの城砦。
鳥すらも歌う声をひそめる静寂の森にあった瞬のための監獄は、どう見ても1000をくだらない兵に取り囲まれていた。
聖域から離れた場所にあり、移動の難しい森の中、1000という数が妥当なのか法外なのかは わからなかったが、瞬にはそれがハーデスに呪いを受けた者を手に入れるために いずこかの国の王の命令を受けてやってきた招かれざる客だということが、嫌でもわかってしまったのである。

裸身のはずだった瞬は、既に衣服を身に着けていた。
敵の侵入に気付いた氷河が、すぐに瞬が逃亡できるようにそうしてくれたのだろう。
外の喧騒に気付いた瞬が 塔の中程にある部屋の窓から城の外庭を見下ろした時、瞬の目覚めに気付くはずのない氷河が、視線で瞬に城から逃げるように命じてきた。
だが、それは、瞬の錯覚だったのかもしれない。
氷河はアテナが禁じている武器――剣を振りかざして、敵群を切り崩している最中だったのだから。

「瞬は渡さない!」
そう咆哮して敵兵の中に切り込む氷河の周囲には、既に100を超える男たちが倒れ伏し、氷河の足場を悪くしていた。
氷河の手足は傷だらけで、ほとんどすべてが血で覆われている。

「氷河……」
野心や欲というものは、生きていてこそのものだと思う。
死んでしまったら、弱者を見下すことも、弱者を支配することもできない。
叶うかもしれないと一度は期待を抱かされた野心の消失を氷河は惜しんでいるのだろうかと、昨日までの瞬なら疑ったことだろう。
だが、今の瞬は、そうではないことを知っていた――確信していた。
瞬が窓際から、身を翻す。
氷河の身を守らなければ――その思いが、瞬を尋常でない数の敵の前に 我が身を走らせていた。

「瞬……」
瞬が城の庭に姿を現わしたことに気付くと、氷河は絶望したような目で、彼の幼馴染みを見詰めた。
それまで、瞬がこの城を出るまではと気を張っていた彼の力は、そこで尽きたらしい。
血にまみれた彼の身体は、空を仰ぐようにして大地の上に倒れていった。
この城から逃げることを、彼は瞬に望んでいたのだと、瞬は確信することになったのである。

その事実を確信し、瞬は、自分の足元に打ち捨てられていた剣を 一振り 手に取った。
そして、いずれの国の者なのかも知らない兵たちに向き直る。
「あなた方は、僕を傷付けたらどうなるかはわかっているはずですよね。あなた方の主人は、僕を殺すなと、あなた方に命じたはず。あなた方が これ以上氷河を傷付けるようなことをしたら、僕は今ここで自分の命を絶ちます」

ひるむ数百の兵たちの顔を、瞬は ひと渡り見渡し、それから彼は、氷河によって倒され城の庭に伏している兵たちの上に視線を落とした。
「助かる者たちは助かるでしょう。仲間を連れて――」
傷付き呻く兵たち。
こんな命令を下した王も醜いと思うが、その醜い者の命令になぜ彼等は従うのかという憤りが、瞬の声をきつくした。
「今すぐ、ここから立ち去れ」

地上の国の王の命令に逆らうことのできない兵たちは、死の国の王の力を与えられた者に逆らう気概は なおさら有していなかったらしい。
傷付いた仲間を、ある者は担ぎ、ある者は肩で支えて――やがて彼等は、瞬を閉じ込める監獄だった城の庭から無言の撤退を開始した。

彼等が全員その場から立ち去るのを待ちきれず、瞬は地に仰向けに倒れている氷河の脇に膝をつき、彼の胸に手を当てた。
出血がひどく、金色の髪も黒く見えるほど血に濡れていたが、氷河はかろうじて生きていた。
瞬は、畳み掛けるように氷河に訴えたのである。
あふれてくる涙のせいで、その言葉と声は明瞭なものになってくれなかったが。

「氷河、今すぐ、生きたいと願って。僕が氷河の願いを叶えてあげる」
瞬の涙ながらの訴えに、氷河が首を横に振る。――振ろうとしたらしい。
だが、そうするだけの力は既に彼には残っていないようだった。
「俺の願いは……争いのない世界の実現だ。おまえや俺のように理不尽な戦で親を失う子供が二度と出ないような」
「それは叶えてあげられない。それは地上に住むすべての人々が自らの手で努力して掴まなければならないものだと思うから。だからアテナも地上の戦には関与しないのだと思う。僕にできるのは、きっと、もっと個人的な人の欲を実現することだけなんだよ」

「ならば……おまえが何にも縛られず、おまえらしく生きていけるように――。それが俺の望みだ」
氷河の声はかすれ、弱まり続けていた。
それは、文字通り、血を吐くように苦しげな息で作られた言葉だった。
瞬が、氷河の頬の上に、涙の雫を落とす。
「そんなことだろうと思った」

やはり そうだったのだ。
氷河は、その外見はどうあれ、心は2年前の彼と少しも変わっていない。
「氷河、死なないで。僕と生きていたいと願って。僕を死なせたくないなら――僕を泣かせたくないなら」
それは命令だったのか、あるいは哀願だったのか。
それでも氷河は、最後の一息で吐き出す言葉を迷っているようだった。
だが、二人が二つの命以外に何もない戦場で出会った時から、同じ村で暮らしていた年月、離れて生きていたこの2年間もずっと、そしていつの時も、氷河が瞬に求めるものは瞬の笑顔だけだった。

「泣かないでくれ……」
そうして瞬の・・望みは叶ったのである。
瞬を敵に渡すまいとして戦い、縦横無尽に傷を負い、止むことなく体内の血を大地に染み込ませ生気を失いつつあった氷河は、瞬く間に元の頑健な肉体を取り戻していた。
二人の他には誰もいない森の奥の城砦の庭で、瞬は氷河を強く抱きしめたのである。






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