普通に進めば半日かかる道のりを、ヒョウガは馬を飛ばして、常の5分の1ほどの時間で駆け抜けた。
都の公爵邸には寄らず、まっすぐに王宮に向かったのだが、ヒョウガはそこでシュンはおろか王に会うことすらできなかった。
怒りに目を血走らせているような公爵を、戴冠式前に王に会わせる無謀を為そうとする者は、さすがに王家の拠点である王宮には誰一人いなかったのである。
それならそれで戴冠式を滅茶苦茶にしてやるだけだと、ヒョウガは開き直った。

北の大公爵が戴冠式で新王に膝をつかなかったなら、それだけで式場は――国中が――大騒ぎになるだろう。
その場でシュンをよこせと、王に詰め寄るのだ。
その願いが叶うなら、王に跪いてやってもいい。
これは一石二鳥のいい案だと、ヒョウガは思ったのである。
王位を得るために愛した者を捨てる男と知れば、シュンも王に愛想を尽かしてくれるかもしれない。

王位などどういでもいい。
自分は王には向いていない。
国の平和のために自分の人生を犠牲にすることなど、この恋を諦めることなど、できるわけがない――。
眠れぬ夜を過ごしてから、翌日、シュンをその手に抱きしめる固い決意を胸に秘めて、ヒョウガは戴冠式が行なわれる大聖堂に乗り込んでいったのである。

古いゴート風の巨大な聖堂の2階席は、既に貴族・僧侶・市民の代表者たちで埋め尽くされていた。
戴冠式の間、地上階の広間に立つことができるのは、王と王に王冠を授ける教皇、国民の代表者である10の有力門閥の当主たちだけである。
入り口近くに設えられた舞台で教皇の手から王冠を戴いた新国王は、順に10人の大貴族から臣下の礼を受け、最後に祭壇の前にある玉座に進む。
式次第はそれだけだった。
それだけのことが恙無つつがなく厳粛に行なわれるかどうか――に、国の未来がかかっている。
そして、ヒョウガは、事と次第によっては、国の未来がかかったその式を滅茶苦茶にしてやるつもりだった。

やがて刻限が訪れる。
陽の光を背にして式場に入り戴冠用の舞台に上がった新王は、存外に小柄な男だった。
陽光に縁取られたそのシルエットに、ヒョウガは、王が重たげな王冠や仰々しいほど長いマントによって地に押さえつけられているような印象をさえ抱いたのである。
頼りなく ひ弱そうな王の姿に、これならシュンとて王より自分の方を選ぶに違いないと確信し、ヒョウガは何か気の抜けた気分にさえなった。
他のことでなら、力も富も、北の公爵は王に引けは取らない。

戴冠した王は、次にゆっくりと国の代表である10人の大貴族たちの前に歩を進めた。
10人の貴族たちが、一人ずつ 順に新王に跪き、臣下の礼をとって王の手に口づける。
新王は、最後に、最も玉座の側近くに立つヒョウガの前にやってきた。
その歩みに、ヒョウガは何か不思議な感覚を覚えたのである。
ヒョウガがどこかで触れたことのある優しく懐かしい空気――を、王はその身にまとっていた。
ヒョウガは、すぐに、そんなものは錯覚だと自身に言い聞かせたが。

公爵の寝台から大切な恋人を連れ去った男はいったいどんな男なのか。
どんな男でも絶対に許さないと決意して、恋敵の顔を睨みつけようとしたヒョウガの視界の中に現れた年若い王。
それは、ヒョウガが王位よりも公爵領よりも価値があると信じ、ヒョウガに 国の民や自領の民の苦難を顧みることを忘れさせ、その心身を我がものにしていなければ自分が生きていることすら屈辱だとヒョウガに思わせた、小さくて細い あの少年だった。
「シュン……」

「――跪いて」
瞳を見開き息を呑んだ公爵に、王が命じる。
他にどうすることができただろう。
今、ヒョウガの目の前にいるのは、彼が唯一 その足許に跪いてもいいと宣言した人間、ヒョウガが誰よりも何よりも欲しいと思う人間、すべてを捨てても自分の腕に抱きしめたいと願った恋しい人――だったのだ。
自分の意思というより、恋の力・自然の力に逆らえず、ヒョウガは新王の前に膝をつき、臣下の礼を取った。

「ありがとう。とても嬉しい」
シュンがひどく優しい声で、ヒョウガに語りかけてくる。
臣下に口付けを許す儀式を行なうために――シュンの手がヒョウガの前に差し出されることはなかった。
シュンはそうする代わりに、その身をかがめ、自分からヒョウガの頬にキスをした。

神から王位を授かった王が、自ら腰を折り、臣下の一人に口づける――。
それは、列席していた貴族・国民たちに、王と公爵が事前に申し合わせた演出なのだと思われたらしい。
しわぶき一つなく、人の呼吸の音すらも凍りついたような静寂に支配されていた大聖堂は、次の瞬間、国中のすべての山が一斉に雪崩を起こしたような大歓声で満たされた。

王と公爵に万歳を叫び、その場にいる者たち全員が互いに、内乱が回避されたことを歓喜と共に報告し合っているような大騒ぎ。
その歓声の中で、ヒョウガはやっと理解したのである。
ごく一部の貴族を除き、他のすべての人々は平和こそを――平和だけを望んでいたのだということを。
領民国民の不安を煽るように無責任な噂や疑心暗鬼。
それらはすべて、楽観の果てに訪れる失望の大きさを忌避しようとする用心にすぎず、彼等は本当は何よりも平和の確信を欲していたのだ、と。
シュンは――新王は――おそらくそのことを知っていたのだ。






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