「兄さん、もう行っちゃったの……」
翌朝、瞬が氷河の部屋からラウンジに下りていったのは10時を過ぎた頃で、彼の兄の姿は既に城戸邸のどこにもなかった。
図らずも瞬にその事実を知らせる役目を負わされてしまった星矢は、一度 氷河を睨みつけてから、瞬に向かってすきなそうに言った。
「おまえが起きてくるの、待ってたんだけどさ。まあ、その何だ。氷河の策略か何かだったんだろうけど、おまえがなかなか起きてこないからさ」

瞬にそう言いながら、いっそ一輝が瞬の寝坊の原因に腹を立て、不機嫌そうにこの家を出ていってくれたならどんなによかったかと、星矢は思っていたのである。
そうすれば、瞬を慰めることはできなくても、氷河を罵倒して、この気まずい空気を払いのけることはできていただろう。
だが実際には 一輝は、氷河と瞬の遅い起床に文句の一つも言わず、上機嫌とは言い難かったが特に不機嫌そうにでもなく、ごく普通に、彼の弟のいる邸から出ていった。
おかけで星矢は、他に言うべき言葉も見い出せず、気まずく一輝の不在だけを瞬に伝える羽目に陥ったのだ。

「そう……」
肩を落として、瞬が呟く。
星矢は無理な笑顔を作って、そんな瞬を励ました。
「ま、またそのうち、ひょっこり帰ってくるだろ。悪いのは氷河だ」
瞬のすぐ後ろに立っている氷河を、もう一度忌々しげに睨みつけた星矢は、だが、思いがけない瞬の言葉によって、その睥睨を中断させられた。

「夕べは、僕が氷河を放さなかったの」
と、瞬は言ったのだ。
「へ」
星矢が、情けないほど間の抜けた声をラウンジに響かせる。
瞬は小さく首を横に振って、星矢の誤解を正すべく、更に言葉を重ねた。
「僕が氷河に氷河をねだったの」
「――」

星矢が、今度こそはっきりと絶句する。
「お……おまえ、そんな可愛い顔して、すげーこと さらりと言ってくれるじゃん」
かなり長い間をおいてからやっと気を取り直した星矢は、脱力しきった肩と口調で そうコメントした。

星矢のコメントに傷付いたわけでもないだろうが、瞬がその顔を俯かせる。
それから、瞬は、低く くぐもった声で、
「僕はきっと、兄さんに氷河を取られるのも、氷河に兄さんを取られるのも嫌だったんだ。だから、あんな みっともないこと――」
と、呻くように言った。

その時ラウンジにいた瞬の仲間たちは、瞬の嘆きの意味と理由が全くわからなかったのである。
その“みっともないこと”のせいで、昨夜はすっかり天国に拉致された気分でいた氷河に至っては、涙に震える瞬の肩に 目を剥くことしかできずにいた。






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