司令官がいなくなると、シュンはすぐに機敏な動作で、彼が椅子代わりにしていたものの上からすり抜けた。
道徳的で節度と理性を重視するタイプの人間は そう嫌いではなく、それ故 あの司令官をたばかることには少々 良心に痛みを覚えたのだが、今のシュンには自分の良心よりヒョウガの命と自由の方が大事だった。

「こんな いい加減な造りの牢、抜け出すのは簡単だけど、そのあとが面倒なんだ。この牢から僕たちの村までの間にはローマ兵がうようよしてて、ここの陣だけで2000人近くの兵がいるの。同じ規模の歩兵大隊が、半日あればここに集結できる場所に あと5つ。牢を抜け出すより、ローマ兵たちに見付からずに村に辿り着くことの方が難しそうだよ」
少し早口で、シュンがこの牢の周囲の様子を彼の王に説明する。

明瞭な発音、いかにも機転のききそうな瞳の輝き。
そこには“ローマ貴族のような”退廃や隠微の色は全くない。
頼もしいことは頼もしいのだが、たった今まで抱きしめていた恋人の身体の温もりに あっさりと逃げられてしまったヒョウガの手は、その温もりに未練を覚えないわけにはいかなかった。

「明後日の夜に、ローマの初代皇帝アウグストゥスの150年目の即位記念の祝祭とやらを執り行なうんだって。その騒ぎが大きくなった頃を見計らって火薬に火をつける。火薬の量は少ないけど、大爆発を起こしたらローマ兵に気付かれるし、この牢の壁は漆喰だから、それで人が一人通れるくらいの穴は開けられると思う」
「戦の最中にお祭りかよ!」
セイヤは呆れた口調でそう言ったのだが、彼が本当に呆れていたのは、ローマ兵が戦の最中に祭りを催すことではなく、シュンの変わり身の早さに対してだった。

「ローマ軍って、基本はローマ市民しか入隊できないことになってるんだ。戦うために鍛えられた兵や奴隷じゃなく、普段は仕立て屋や肉屋をやってて剣の扱いもろくに知らない一般人たちが、無理矢理こんな遠くまで連れてこられてるのが現状なんだ。当然、不満もあるだろうし、不安もあるでしょう。彼等には鬱憤晴らしが必要なんだよ」
「へえ……そうなんだ。道理で――」

シュンの説明を聞いて、セイヤはローマ兵の弱さの理由に やっと合点がいったのである。
たった50人のブリトン族の戦士が4、50倍の数のローマ軍に立ち向かって、毎回それなりの戦果をあげられることを、セイヤはこれまでずっと不思議に思っていたのだ。
絶対的な数の差は確かにあり、ブリトン族はローマ軍に対して完全な勝利をおさめることはできなかったが、完膚なきまでに負けたこともない。
敵が、戦いを知らない素人の集まりなのであれば、それも無理からぬことだった。

「うん、それで、火薬で破壊できればいいんだけど、用心のために、あの窓の鉄格子をヤスリで削って少しでも弱く――」
「あれは鉄格子じゃない。銅だ」
「なら、鉄より簡単だね」
「あれくらいなら、俺が手でねじ曲げられる」
「え……」
ヒョウガが語る事実は、この逃亡計画には実に有利有益な情報だった。
それは、こそこそと見張りの目を盗んで鉄格子と格闘しなくて済むということなのだから。
しかし、ヒョウガにそう言われたシュンは、彼の王の前で不服そうに口をとがらせることになった。

「ヒョウガには、もっとこう……つまり、知的に逃亡しようという考えはないの」
シュンとしては、できるだけ華麗かつ鮮やかに この牢を抜け出して、ローマ人たちの鼻を明かしてやりたかったのである。
シュンは、彼等が野蛮人と蔑む者たちは腕力や蛮勇だけでできているのではないのだということを、彼等に知らしめたかった――のだが。
肝心の王は、ブリトン族に対するローマ人の評価に ほとんど関心を抱いてはいないようだった。
尊敬できない者に感心されても嬉しくない――という彼の考えはわからないでもない。
しかし、シュンは、他の誰でもないヒョウガが、愚鈍なローマ人たちに軽んじられることが我慢ならなかったのだ。

そんなシュンの憤りを察して、ヒョウガが嬉しそうに笑う。
どんな力も能力も、彼は彼の愛する者のためだけに使いたかった。
「俺の知性は、おまえを口説き落とす時に、一生分を使い果たしてしまった」
「さっさと押し倒してくれてよかったんだよ。僕の気持ちは知ってたくせに、まだるっこしいことするから、こういう時にアタマが足りなくなって苦労するんだ」
「そうはいくか。野蛮人は獣のようにあさましいと、ローマ人に馬鹿にされる」
「獣の方が一回で満足する分、人間より あっさりしてるのにね。ローマ人の非難は、本当に的外れだ」

「おまえらなー……」
二人の夜の生活がしのばれるやりとりを聞かされて、セイヤは大袈裟に顔をしかめた。
この二人と共にいると、運命を悲嘆したり、人生に絶望したりすることほど馬鹿らしいことはないという気になる。
セイヤは、だから、この二人の のろけとも痴話喧嘩ともつかないやりとりを聞いているのが、そう嫌いではなかった。
平和だった昔を懐かしむことしかできない老人たちは 二人の楽天振りに眉をひそめるが、若者たちには受けがいい。

「おまえらにはツツシミってもんがないのか? ほんと別の牢にしてほしいぜ。」
そうなったら、逃亡に2倍の手間と時間がかかることはわかっている。
その事態を避けるために、先程 セイヤはわざと牢を別にしてくれと、ローマの司令官に訴えた。
それはシュンの入れ知恵で、もちろん その作戦が有効だと思うから、セイヤはシュンの指示に従ったのだが、牢を別にしてほしいというのは、ある意味ではセイヤの本音でもあった。
セイヤが同じ牢内にいるせいで、二人は色々と行動が制限されているのだ。
ブリタニアの野蛮人は、ローマの貴族たちより、よほど慎みを心得ていた。






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