私に問われたことには答えずに、氷河さんは、突然奇妙なことを語りだしました。
それは、私にとっては、とても奇妙な話でした。
「2年前まで俺は――俺たちは、ある女性を守るために戦っていたんです。その人は、俺たちが共鳴できる理想を掲げて多くの者たちを導いている人で――だから俺たちは、その理想の実現のために――司祭様には信じられないかもしれませんが、宗教上の論争や精神の戦いではなく、力と力、技と技の戦いを繰り返していたんです。彼女には、彼女の理想の実現を阻もうとする敵が数多くいたので」

「力と力の戦い……? それは――」
それは、何百年も昔、キリスト教徒たちが聖地奪還のために十字軍を起こしたような、あるいは、同じキリスト者同士で異端を排斥しようとしたような、そんな戦い――だったのでしょうか。
私は、そんな戦いが、今 この21世紀にありえるものなのかと疑い、そんなことは馬鹿げているという結論に至りかけ、しかし、最後には、それは決してありえないことではないと思い直しました。
現に、我々と同じ神を神と仰ぐアラビア半島に生まれた砂漠の宗教の民は、この現代でも武器を取った戦いを同胞同士で続けています。
それはありえないことではありません。
――が。

「俺たちは彼女を女神アテナ――いや、救世主ハリストスのように俺たちを平和に導く者だと思っていた」
氷河さんの言葉は、私を非常に驚かせることになりました。
氷河さんは何らかの危険な新興宗教に、その心を惑わされていたのか――と。
ですが、それはありえないことです。
彼は間違いなくロシア正教徒です。
主が何であるかを知り、修道誓願を立てた修道士並みに 主に仕える術を心得、実戦してもいる、紛れもないロシア正教徒。

氷河さんはおそらく、何らかの不都合があって本当のことを言うことができず、だから、私にわかりやすいように神と宗教になぞらえて自らの事情を話してくれているのだと、私は思いました。――そう思うことにしました。
そうとでも考えなければ、彼の話は信じ難いものでしたから。

「ある日、その女性に害を為そうとする者が現れて、俺と瞬は彼女を守るための戦いを始めたんです。その戦いの中で、瞬が危地に追い詰められた。瞬を好きだった俺の目は、その時、瞬の姿をしか映していなかった。女神も瞬を救おうとして動いていたことに気付かなかった。俺は瞬を救おうとして、その……ある特殊な力を使い、その力で敵もろとも、俺たちが守ろうとしていた女神をも傷付けてしまったんです。彼女は命はとりとめましたが、右腕を失いました」

私が、わから・・・ない顔・・・をしたからなのでしょう。
氷河さんは、彼の事情を、今度は聖書の登場人物になぞらえて、もう一度彼の犯した罪がどんなものであったのかを、私に語ってくれました。
「言ってみれば、ユダヤの兵に襲われかけている生神女マリアを救おうとした使徒の俺が、マリアを庇おうとしていたイイススを傷付けてしまったようなものです。神の子の使徒が、人にすぎないマリアを守るために神の子の血を流してしまった――」
「……」

人にすぎない生神女マリア――確かに、主イイススの人の世の母である彼女は神と全く同質な存在ではありませんが、けれど特別な人間です。
氷河さんにとって、瞬さんはそういうものだったのでしょう。
特別な人、何があっても生きていてほしい人、その人がいなければ自分が不幸になると思える人――。

「彼女が病院に運ばれたのは、降誕祭の前日でした。その日のうちに、俺と瞬は、彼女が右腕の切断を余儀なくされたことを知った」
「それは……」
「その夜、俺は瞬の部屋に行き、瞬に好きだと告げた。瞬も俺を好きだと言ってくれた。初めてのキスを交し、抱きしめ合い、互いを与え合った。そして、俺は瞬の許を去った。それだけのことです」

それだけのこと――と、氷河さんは言いますが、それが本当に『それだけのこと』であったはずがありません。
愛している人に愛されていることを知りながら、その人の許を去る。
それがどれほど つらいことであったか――。
氷河さんだけではありません。
瞬さんも――愛している人に去られてしまった瞬さんとて、自分が愛されていることを知っているから なおさら、それはやりきれないほどにつらいことであったに違いありません。
瞬さんのあの寂しそうな眼差しは、自分が氷河さんに愛されていることを知っているから、その上でたったひとり 取り残されてしまったからこそのものだったのでしょう。

「俺が瞬を愛したせいで、俺は自分が神とも思っていた人を傷付けた。だから、俺と瞬は一緒にいることはできないし、瞬と幸福になることはできないのだと思ったんです。瞬もそれはわかっているはずだ」

『人間が愛し合うことを知らない存在であるなら、そんなものは滅んでもいい、と断言する人です』
その時私は、城戸邸で瞬さんが私に語ってくれた城戸沙織嬢の言葉を思い出しました。
そして、氷河さんと瞬さんと沙織嬢の間で起きたこと、その事実だけは認識することができたのです。
まるで神のようなことを言う女性――瞬さんは彼女を敬愛しているようでした。
氷河さんは、瞬さんを守るために沙織嬢を傷付けてしまった――のでしょう。

「そのイイススが、城戸沙織嬢? そして、生神女マリアが瞬さんですね。しかし、城戸沙織嬢にはちゃんと両腕がありました」
「義手でも作ったんでしょう。金と努力でどうにかなることは、どうにかする人です」
「義手……」

城戸邸で沙織嬢に会った時、私は、彼女に対して ほがらかで聡明な女性という印象を持ちました。
それ以外のものを、彼女は私に感じさせなかった。
自分を他人にそう見せることができるほどに、どうやら彼女は強い女性でもあったようです。
彼女は我が身に降りかかった不運を嘆いている素振りを、私に全く感じさせませんでしたし、その不運を招いた元凶でもある瞬さんを恨む様子もなく、むしろ強く信頼しているようにも見えた。
そして、瞬さんは――。
「瞬さんは、あなたの帰りを待っているようでした」
「俺が帰れないことを、瞬はわかっているはずです。俺は、瞬一人を救うために、人類を滅ぼそうとした男だ」

『大袈裟な』――そう言おうとして、私はそうするのをやめたのです。
氷河さんの言う神――この場合は城戸沙織嬢――は、片腕を失うだけで済みました(『済んだ』という言葉には大きな語弊がありますが)。
ですが、マリアを救おうとした神の子の使徒が神の子イイススの命を奪ってしまっていたとしたら、主の教えは 人々に知られることなく消えてしまっていたかもしれないのです。
神は人類を救うために、神の子イイススをこの地上に遣わされた。
その神の子が死んでしまったら、神の意思はこの地上に現われなかったかもしれない。
もしそんなことになっていたとしたら、この地上は罪に覆われ、人間は永劫に救われないものになってしまうのです。

それは、確かに、『たまたま腕だけで済んでよかった』と片付けることのできない事態です。
氷河さんと沙織嬢の上に起こったようなことが、もし2000年の昔に実現していたとしたら、私とて主のしもべとして こうしてここにいることはなかったのです。
氷河さんが自分と瞬さんの幸福を犠牲にして――自分たちが幸福にならないことで、その罪を贖おうとするのは、考えようによっては とても自然で、当然のこと――なのかもしれません。
それだけの罪を犯した――のです、氷河さんは。

ですが、私にはどうしても現状が最善の状態だとは思えなかった。
瞬さんの寂しげな瞳、神のせいで悲しげな瞳、瞬さんの不幸と寂しさは、はたして神の望んでいるものでしょうか。
私は、彼等の神に――城戸沙織嬢に――事実はどうなのかを教えてもらいたいと思いました。






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