そんなある日のこと。
氷河は、コートを身につけ茶封筒を抱えた瞬が 城戸邸の玄関を出ていこうとしている場面に出くわした。
聞けば、グラード財団統合本部ビルまで ある書類を届けてほしいと、沙織に頼まれたという。
なにやら大きな事故があったらしく、都心に向かう高速道路は50キロの渋滞――実質 不通になっていて車やバイクは使えないらしい。

「わざわざ届けに行かなくても、ファックスを出すか、スキャニングしてメールに添付して送付したらいいじゃないか」
アテナの聖闘士を使い走りに使うグラード財団総帥の神経に不快を覚えつつ、氷河はそう言ったのだが、使い走りに使われる当の本人は、自分に任された仕事に何の不満も覚えていないらしく、にこにこ笑いながら答えてきた。
「とっても大事な契約書だそうだから。双方の会社の社印と代表取締役社長のサインが必要なんだって。朱色のハンコと、モンブランの万年筆で書かれた直筆サインがね。コピーじゃ意味ないんだって。電車で行ってくるよ」

瞬はもともと、誰かの役に立てることに無上の喜びを感じるタイプの人間である。
瞬がそう言うのなら、氷河としても瞬のやる気に水を差すようなことはできなかった。
仕方がないので、氷河は、ボディガードを一人連れていく気はないかと、瞬に申し出たのである。
それでなくても にこにこしていた瞬が、更に嬉しそうな顔になり、表情を明るく輝かせる。
「ありがとう。こういうのもデートって言うのかな」
そう考えれば、確かに使い走りもそう悪い仕事ではない。
瞬につられる格好で笑顔になってから、氷河は謹んで瞬のお供を勤めることにした。
――そして、事件は起きたのである。

通勤ラッシュは一段落していたが、電車はまだそれなりに混んでいた。
そういう時刻だった。
滅多に乗ることのない電車に そわそわした様子で乗り込んだ瞬は、目的の駅で降り損ねないように、電車が駅のホームに入るたびに駅名を確かめていた。
そんな瞬を、氷河は苦笑を押し殺しつつ見守っていたのだが、ある大きな駅を過ぎたところで瞬の様子に変化が現れた――のである。

それまで やたらと車内の電光掲示板や路線図を気にしていた瞬が、突然その行為をやめ、ほとんど俯くように視線を下方に向け、もじもじし始めたのだ。
いったい瞬は何を見ているのかと訝ることになった氷河は、やがて、瞬は何かを見るためにではなく、何かから意識を逸らすためにそうしているのだということに気付いたのである。
瞬の尻や太腿を撫でまわしている けしからぬ手から。

犯人はすぐにわかった。
瞬の背後に立ち、わざとらしく車内吊りポスターを眺めている40絡みの男の肩と腕が、自然に直立した場合にはありえない方向によじれていたのだ。
瞬は、その手の接触は無意識かつ偶然の為せるわざであり 意図されたものではないと、懸命に思おうとしているようだったが、氷河はそんな好意的視点に立って人を見る男ではない。

相手は、よりにもよって瞬に手を出す身の程知らずである。
いっそその手を絶対零度の凍気で凍りつかせて一生下劣な行為に及べないようにしてやろうかと、氷河は考え、実際に彼はそうしようとした。
彼がその乱暴な痴漢撃退を思いとどまったのは、ひとえに、これほどの至近距離でそれをしてしまったら瞬にまで凍気の被害が及ぶかもしれないという事実に気付いたからだった。
へたに騒ぎを起こすと、瞬が恥をかくことになりかねないと考えたせいもある。

結局 氷河にできたのは、無言のまま、だが かなり手荒に痴漢の手を捩じ上げ 動きを封じ、その男を次の駅で鉄道警察隊の警察官に引き渡すことだけだった。
目の周囲を ほの赤く染め、困惑したように氷河に寄り添い立つ瞬を見て、警察官はすぐにすべてを察してくれた。
察しのいい警察官も、瞬が男子であることには気付かなかったようではあったが。

隠れもなき犯罪者が駅構内にある分駐所に しおしおと引き立てられていくと、それまでひたすら もじもじしているばかりだった瞬が、やっと口を開いた。
「あ……ありがとう。ごめんなさい」
瞬に礼を言われ、軽く頷き返そうとしたところで、氷河はある衝撃的な事実に気付いたのである。

今 書類袋を両手で抱え 氷河の前に立っている瞬の頬は、羞恥のためにほのかに上気していた。
それが、痴漢行為そのものではなく、痴漢の標的にされてしまった自分自身を恥じてのことだったにしても、ともかく瞬が羞恥のために頬を染めているのは事実だった。
思い返せば、電車内で痴漢行為の被害に合っていた まさにその時にも、瞬は、その不自然な接触に戸惑い、視線をあらぬ方に向けていた――つまり、“反応して”いたのだ。

(俺が何をしても無反応なくせに、痴漢には感じるのかっ !? )
氷河の腹立ちは少々飛躍に過ぎるものではあったが、それは確たる事実でもあった。
氷河に身体のどの部位をどんなふうに触られようと、血の気の失せた青白い頬のまま微動だにしない瞬が、痴漢にはそれに“ふさわしい”反応を示していたのである。
氷河の憤りを、一概に 故なきものと言ってしまうことはできないだろう。






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