「――俺は、シュンに心を残しつつロシアに帰った。やがて父が亡くなり、大公家を継いだ義兄は、あなたからの招待のせいもあって、再び俺に渡仏を許してくれた。――パリに入る前に母の故郷に立ち寄ってきたんだ。2年前に母の墓で祈ってくれた あの神父は亡くなっていて、後任の神父に、シュンはもうここにはいないと言われた。前任の神父が亡くなってすぐ、パリに出たと」 「そして、あの子を追いかけてきて―― 一足遅れで、他の男に奪われてしまったというわけか」 カミュは、ヒョウガにとっては手痛い現実を言葉にして呟いて、肘掛け椅子の腕に置いていた手の指を軽く動かした。 伝統と格式を重んじているわりに、カミュの屋敷の家具調度の類は、豪壮なバロックのそれではなく、優美なロココのそれでもない。 生活面では利便性を第一に考えているカミュが腰掛けている椅子は、つい先日イタリアから取り寄せたばかりのものだった。 「……」 ヒョウガは、シュンに名も名乗らなかった。 遠くから、互いに互いの姿を見交わしただけである。 ヒョウガは、一足どころか二足も三足も、シュンの夫に後れをとっていたのだ。 だが、2年前、南仏の教会で、墓地で、二人が遠くから交わし合った眼差しには、シュンも気付いていたはずだった。 まるで運命と触れ合うことを怖れるように、近付くこともできなかった心の震え。 二人は必ずもう一度出会うと、ヒョウガは確信していたのだ。 それが まさかこんな出会いになるとは、ヒョウガは思ってもいなかったが。 2年前の自らの臆病を憎むように唇を噛みしめたヒョウガを、カミュが気の毒そうに見やる。 「この国では実にけしからんことに、革命前から、妻が夫以外の愛人を持ち、夫が妻以外の愛人を持つことは当たり前のこととされている。むしろそれが上流社会のマナーで、正式な配偶者以外に恋人を持たぬ者は不粋者と蔑まれる。――が、あの子はやめておいた方がいい」 カミュは、ヒョウガがハーデスの妻に恋をしているものと思い込んでいるようだった。 それは誤解だと彼に告げようとして――ヒョウガはそうすることをやめた。 「おそらく、ハーデスに金で買われた子だ。ハーデスの目を盗んで密通などしないだろうし、できない。ハーデスが許すまい。私も許さんぞ」 「なぜ、シュンが彼の妻なんだ……」 シュンは、ハーデスの妻などにはなれないはずだった。 自分はシュンに恋をしているのではないとヒョウガが思い込んでいた理由を考えると、それは絶対に不可能なことのはずだった。 しかし、シュンは、現に今、ハーデスの妻として、このパリの街にいる。 ヒョウガは、カミュの話を聞いていたからこそ、彼にそう反問したのだが、カミュの方はヒョウガが年長者の話を聞いていなかったものと思ったらしい。 少々苛立たしげに、そして吐き出すように、彼は言った。 「ハーデスは、金で買えないものはないという哲学の持ち主なんだ。妻も金で買うだろう」 「シュンはそんな子じゃない。シュンは――」 『シュンはそんな子ではない』と断言できるほど、自分はシュンを知らない――という事実を、ヒョウガは今になって自覚することになった。 自分はシュンのことを何も知らないのだ。 シュンが何を考え、誰を愛し、これまでの生をどんなふうに生きてきたのか。 ヒョウガは何も――シュンに関することを全くと言っていいほど何も――承知していなかった。 彼はただ、南の国の明るい光の中で健気に生きていたシュンの姿を垣間見、心惹かれただけの異邦人にすぎない。 「ヒョウガ……」 ヒョウガの消沈の様を見て――その本当の訳は知らなくとも――カミュはさすがに憐憫の情を抱いたらしい。 彼は、肘掛け椅子の横に置かれていた単脚のテーブルのひきだしから一通の手紙を取り出した。 「ハーデスの目を盗めるわけもないが――ジャルパンティエ夫人のサロンからの招待状がきている。明後日だ。ハーデスと彼の奥方も来るだろう。私は行けないが、代理の者を訪ねさせると連絡を入れておこう」 「カミュ……」 カミュはこの“恋”を好ましくないものと思っているのではなかったのかと、ヒョウガは、手渡された招待状を見やりながら訝った。 ヒョウガの疑念を遮るように、カミュが言葉を継ぐ。 「私とハーデスは根本的に価値観が違う。私は、彼自身は大いに気に入らないが、彼の才覚は認めている。まず欧州では第一級の男だ。今のおまえでは、まだ太刀打ちできない。まして、彼は彼の奥方と正式に結婚しているんだ。叶わぬ恋はしない方がいい」 これはあくまでも叶わぬ恋を諦めさせるためのお膳立てなのだと、彼は言外に言っていた。 だとしても――カミュの意図が、自分の親族と人妻との恋に好意的なものでないと知らされても――ヒョウガは彼の提案に飛びつかないわけにはいかなかったのである。 シュンにもう一度会えるのなら、会って、『俺を憶えているか』と尋ねることができるのなら――ヒョウガは今はそれだけでもよかった。 2年前に自分が感じた運命(のようなもの)は、自分だけの一人よがりな思い込みではなかったのだと、シュンに言ってもらいたい。 それが、今のヒョウガの、唯一ではないにしても最大の望みだった。 |