俺は氷雪の聖闘士だ。
当然寒さには強く、絶対零度になったら さすがの俺も凍りつくが、氷点下2、30度くらいなら、シャツ一枚でいても平気だ。
そのせいか俺は風邪もひくこともないと思われているらしいが、それは大きな誤解だ。
氷点下数十度という環境は、人間だけでなく動植物や各種病気のウイルスにも活発に活動しにくい環境である。
極寒のシベリアには、伝播の媒体となる人間が少ないせいもあって、風邪のウイルスがほとんど存在しない。
だから俺はむしろその手のものには免疫がないんだ。

というわけで、俺は、どこぞの人混みの中で風邪を拾ってきたその翌日、40度を越える熱を出し、せめて熱が微熱レベルに落ち着くまで自室のベッドから出ないようにと、女神アテナから厳命を受けることになった。
沙織さんは、アテナの聖闘士が風邪をひくなんて情けないとか何とか ぶつぶつ言っていたが、要するに彼女は、俺にとりつくような根性悪のウイルスを自分がもらいたくないから、俺を隔離することにしたんだと思う。
まあ、その気持ちもわからないわけじゃないし、実際、立ちあがるとくらくらしたから、俺は大人しく沙織さんの命令に従うことにした。

――窓の外では木枯らしが吹いているらしい。
雪のない冬を過ごすのは、久し振りだった。
シベリアの冬に比べれば、日本の冬は生温く、これを冬と称するのは馬鹿げていると俺は常々思っていたが、雪や氷で身を包むこともできない城戸邸の庭の裸の木々は、シベリアの雪原に孤独に立つ樫の木よりも寒そうに見えた。
本当の寒さも知らず甘やかされて育ったあの木々は、すぐ側に自分と同じように無力な仲間がいることで かろうじて立っていられるに違いない。
一人きりでは立っていられそうにないほど、城戸邸の庭の木々はどれも頼りなく見えた。

そんなことを考えていたところを見ると、俺はベッドの中でかなり退屈していたんだろう。
憎まれ愚痴や皮肉の応酬でもいいから、誰かと言葉を交わしていたいと思っていたのかもしれなかった。
それは認めなくもない。
だが、俺は決して その会話の相手に瞬を望んではいなかった。
瞬とは――話していても いらいらするだけだということがわかっていたから。
だというのに、俺にとりつくほど根性のある風邪をうつされることを覚悟して病人の部屋にやってきてくれるのは、この城戸邸には やはり瞬しかいないんだ。

「氷河、お茶……」
瞬が囁くように小さな声で そう言いながら俺の部屋のドアを開けたのは、俺が眠っている場合のことを考慮していたからだったろう。
馬鹿のくせに、瞬はそういう気遣いだけはできる奴だった。
退屈していたせいもあって、俺はいつもよりは穏やかな表情で瞬を自室に迎え入れたと思う。
が、瞬が手にしていたトレイの上に載っている耐熱ガラスのポットとカップ、そしてジャムの入ったヴィクトリアングラスのジャム入れを見た途端、俺は、瞬の学習能力の無さを思い出し、またぞろ不機嫌になってしまったんだ。

学習能力のない瞬は、俺の不機嫌にはお構いなしで、俺のベッドの枕許のサイドテーブルに問題のトレイを置くと、そこに壁際にあった籐椅子を引き寄せてきて、俺に断りもなく、その椅子に腰をおろしてしまった。

瞬は今日は、俺にジャムを入れるかどうかを訊いてこなかった。
ポットから耐熱ガラスのカップに紅茶を注ぎ、勝手にジャムをひとすくい入れて、ガラスのマドラーでくるくるとかきまわし始める。
瞬は、本気でそんな甘いものをこの俺に飲ませる気でいるのか?
俺は慌ててベッドの上に上体を起こしたんだ。
具合いが悪いからではなく、自分の意思で俺はそれを飲まないのだということを、瞬に示すために。
そうして、そんなものを飲んでたまるかと、俺が依怙地に唇を引き結んだ時。
「氷河のお母さんって、氷河が病気になった時には、いつもこうしてくれたんでしょう?」
と、瞬は言った。

「なに?」
瞬が、紅茶とジャムの入ったカップを俺の前に差し出す。
透き通った耐熱ガラスのカップの中では、お茶に溶けたジャムが揺らめいて、そこに焦点の合っていない眼鏡越しに見るような風景を作っていた。
ジャムの溶けた紅茶を通して見る世界はぼんやりとぼやけていて、そのお茶を見ている俺は紅茶の海の中に沈んでいるような錯覚に陥る。
どこかで見たことのある光景だと思ったら、それは俺が子供の頃によく見た光景だった。

シベリアでマーマと二人きりで暮らしている頃、俺はやたらと熱を出す子供だった。
多分に精神的なものが原因だったと思うが、特に陽光の少ない冬場には、週に1度は熱を出して寝込んでいた。
そんな俺をベッドに寝かしつけると、マーマは必ず熱いお茶を入れる。
お茶にはもちろんジャムが入る。
それをスプーンでかき回しながら、マーマは俺に言うんだ。
「ほうら、世界が違って見えるでしょう?」
と。

ロシア人がお茶にジャムを入れて飲むことは滅多にない。
大抵はサモワールで沸かしたお茶をヴァレーニエを舐めながら飲む。
だが、俺のマーマは、その滅多にないことをする人だった。
マーマの作るお茶越しに見る世界は、俺が実際に生きて接している世界とはすべてが違って見えた。
マーマの作る小さな世界では、すべてがぼんやりとしていて――幻想的で曖昧だった。
比重の違うお茶とジャムが溶け合い、揺らめく。
ただそれだけのことなのに、俺はいつまで経っても その世界を見飽きない。

それは、あの頃の俺が、今自分がいる世界とは違う世界に行きたいと切望していたからだったのかもしれない。
そこは、マーマが父のいない子を産んだ女と蔑まれることのない世界だ。
マーマの作った世界なら、そこは俺が望む通りの世界に違いない。
俺はそう信じていた――そういう世界の存在を願っていた。

多分に、それは逃避だった。
俺がやたらと熱を出すのも、マーマの作る琥珀色の幻想の世界に俺が憧れていたのも。
だが、その逃避が、俺に つらいことや悔しいことを忘れさせてくれるのは厳然たる事実だった。
マーマの作る琥珀色の世界は、俺の熱を下げてくれたし、憤りや悲しみも忘れさせてくれた。
幻の――幸福な世界。
きっとどこかに それはあると、信じることはできなくても夢想することで、俺は現実の世界で生きる力をなんとか取り戻す。
それがマーマの作るお茶の効用だった。






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