瞬は――マーマと同じ白い手を持っている。 瞬の手の方が、マーマの手より少し小さいかもしれない。 その手がガラスのマドラーで、くるくると幻想の世界をかきまぜる。 あの不幸で優しかった女性と同じように。 あの不幸で優しかった人――なぜ瞬はそのことを知っているのかと、俺は怪訝に思った。 俺が話したからに決まっているのに。 だが、それはいつのことだ? 少なくとも、聖闘士になって日本に帰ってきてからではない。 してみると、どう考えてもそれは聖闘士になる前、多分、俺たちがほんの小さな子供だった頃のことだ。 瞬はそれを忘れずに憶えていて――ああ、だから毎日お茶と一緒にジャムを持ってきてくれたんだ。 俺がつらかったり、具合いが悪かったりしたら、その時にロシアンティーの揺らめきを俺に見せて、俺を力づけ励ますために。 「よく憶えてたな」 何百回となく その世界に癒されてきた当の本人である俺が、今の今まで すっかり忘れていたのに。 俺が尋ねると、瞬は――まるでそれが自分自身の体験した思い出でもあるかのように、目を細めて微笑した。 「僕、お母さんとの そんなふうな思い出ってないから、氷河が羨ましかったんだ。素敵だよね、そういうの」 瞬に手渡されたお茶のカップの中では、琥珀色の世界が揺らめいている。 瞬は、そのお茶と俺とを見詰めていた。 俺がこのお茶を飲むことは、幻の世界を飲み干し消し去ることなのか、それとも俺の中に取り込むことなのか――そのいずれであったにしても、瞬は、俺がそのお茶を飲むことで元気になることを期待して、俺を見詰めている。 マーマと同じ微笑みを浮かべて。 瞬は、あの不幸だった人と同じように優しい。 馬鹿なんじゃなく、愚鈍なのでもなく、瞬はただ優しいんだ。――そうだったんだ。 ここで瞬に渡されたお茶を拒むことはマーマを拒むことでもある。 それは俺にもわかっていた。 だが、今の俺に、瞬がいれてくれたお茶を受け取る権利があるだろうか。 俺はこの瞬を傷付けようとしていた男なのに。 あの不幸だった人の無念を晴らすためだの何だのと 尤もらしい理由をつけて、その実、自分の気を済ませるために。 そう。 どんな理由をつけ、どんな御託を並べたところで、俺の復讐はマーマのためのものじゃなく、俺自身のためのものだった。 その証拠に、俺は今、マーマのお茶を受け取ることができないでいる――。 散々 瞬を馬鹿だ愚鈍だと決めつけておきながら、俺は今になって気付いた。 馬鹿なのは俺の方だ。 俺は、瞬のように、綺麗なマーマの姿だけを憶えていればよかったんだ。 マーマは死んでしまった人だから、それが許される。 本当に、ただそれだけのことだったのに、愚かな俺はそうしなかった。 ――俺は、その時、熱のせいでおかしくなっていた。 いや、熱のせいでまともになっていたのかもしれない。 俺はとにかく、一刻も早くマーマのお茶を受け取る権利を取り戻したくて、瞬に許しを求めたんだ。 「瞬、すまん」 「え?」 「すまん、許してくれ」 「どうしたの。風邪なんて、ひきたくてひくものじゃないし、星矢や沙織さんにからかわれたことは気にすることないんだよ」 「そうじゃない。そうじゃなくて、俺は――」 その時俺は、悟性も理性も壊れかけていた――おそらく。 俺は、瞬にまだ何もしていなかったんだから、瞬を傷付けることに1度たりとも成功していなかったんだから、俺は瞬に謝る必要なんかなかったんだ。謝るべきじゃなかった。 むしろ何も知らせずにいることこそが瞬のためだったのに、俺はまた自分のことだけを考えて行動した。 俺がその時、瞬に自分の企みを告白したのは、瞬のためじゃなく、俺の良心の呵責を和らげるためだった。 瞬の優しい気持ちを 事実を瞬に知らせれば瞬が傷付く。 そう気付いた時には、俺は半ば以上、事情を瞬に話してしまったあとだった。 一輝に復讐するために、瞬を傷付けることを俺が計画していたということを。 瞬を傷付けたくないと思っている今になって、あろうことか俺の企みは成就してしまったんだ。 俺が自分の愚行に気付いたのは、手にしていたティーカップを瞬がサイドテーブルの上に戻した時だった。 俺が自分のしでかした過ちに気付いて臍を噛んだ時、瞬は俺の前で力なく項垂れてしまっていた。 「瞬……」 「あは……。じゃあ、やっぱり、氷河は僕を見詰めてたんじゃく、睨んでたんだ。そうだよねえ。熱い眼差しっていうには、氷河の目は険しすぎたもの。やだな、僕。……ごめんなさい」 瞬は笑おうとしていた。――俺のために。 自分のことしか考えていなかった俺のために。 だが、それは結局うまくいかなくて――まもなく、瞬の瞳からは涙がひとしずく零れ落ちた。 それが瞬の手の上に落ちて、更に小さな粒になる。 「やだ、ごめんなさい」 瞬が俺に告げる謝罪の言葉は――その『ごめんなさい』すら、涙を見せて俺に心苦しい思いをさせたことへの謝罪だった。 悪いのは俺なのに。 瞬はどんな小さな罪も犯していなかったというのに。 「ごめんなさい……!」 自分の涙をとめられないことに気付いたんだろう。 瞬は掛けていた椅子から立ち上がり、俺に恨み言のひとつも残さずに俺の部屋から出ていった。 「瞬、待て……!」 俺はもちろん すぐさま自分のベッドを飛び出た。 床に足をついた時、地球が大きく揺れているような気がしたが、そんなことに驚いてなどいられない。 たとえ たった今地球が壊れても、俺は瞬に謝らなければならなかった。 いや、何かをしなければならなかった。 俺自身のためじゃなく、瞬の傷付いた心を癒すために。 |