スーツに着替えろとまでは言われなかったが、パジャマのボタンは留めていけという、仲間たちの忠告に従うことで、俺は奴等から瞬を追いかける許可を与えられた。
瞬は、城戸邸の裏庭にいた。
葉がすべて落ちた大きな楡の木に身体を預けて、放心したように虚空を見詰めていた。

子供の頃の瞬はいつもこの木の下で泣いていた。
そうだ、俺は泣いている瞬を励まそうとして、ジャムの入ったお茶の向こうに映る世界の話をしたんだ。
あの頃の俺は、今よりもっと素直で、強い人間だったんだろう。
泣いている瞬のために何かをしてやりたいと 欲得抜きで考えて、ガキの俺はそれを実行に移した――。

「瞬、すまない。おまえを傷付けるつもりは――いや、おまえを傷付けようとはしていたんだが、こんなふうには――」
俺が、自分のためにではなく、瞬のために――自分以外の誰かのために――何かをしたいと思ったのは、もしかしたら数年振りのことだったかもしれない。
心からそうしたいと思っているのに、こういう時に限って俺にできることは何もない。
俺が瞬に謝っても、自分の罪を正直に告解しても、それは結局俺のための行為でしかない。
自分はそれくらい どうしようもないことをしでかしてしまったのだと、今になって気付く俺は、やはり世界一の大馬鹿者なんだろう。

瞬は俺の声と姿を認めると、一度小さく身体を震わせた。
そして、そこから――俺から――逃げようとしたようだった。
が、瞬は結局その場に踏みとどまった。
俺に対して卑怯なことをしないために。――おそらく。
「ごめんね。兄さんは――兄さんはあの時、自分の憎しみと悲しみに手一杯で、氷河の心を思い遣る余裕がなかったの。誰かを傷付けることで、自分自身を保とうとしてて、憎しみだけが あの時の兄さんの生きる力だったの」
瞬が一輝を弁護する。――兄のためと、そして俺を非難しないために。
瞬は俺のした無慈悲や理不尽を責めたり、俺を傷付け返したりすることで、傷付いた自分の心を癒し慰めようなんてことは考えないんだ。――俺や一輝とは違って。

そうだ、あの時の一輝は昨日までの俺と同じ。
いや、昨日までの俺があの時の一輝と同じだったんだ。
俺は一輝と同じことをして、人を傷付けることで、自分の気持ちを静め癒そうとした――いや、憂さを晴らそうとしたんだ。
瞬を傷付けることで、瞬を傷付けることのできる自分は瞬より――つまりは一輝より――優位にあると認識し、そうすることで自分の存在意義を確かめようとしていた最低な男だ、俺は。
マーマが生きていた頃、マーマを非難し傷付けていた奴等と大差ない。
だが、あの不運な女性は、他人を傷付け返すことで溜飲を下げようなんてことは、決して考えなかった。――瞬と同じに。

「瞬、俺は……」
人を傷付ける術は知っているくせに、そして、自分が傷付くことだけは上手いくせに、俺は傷付いた人の心を癒す術を知らない。
どんな言葉をかけてやれば 瞬の心は少しでも慰められるのか、全く――本当に何ひとつ思い浮かばなくて――だから、俺は、言葉の代わりに俺は瞬を抱きしめた。
何も言うことができなくて、だが俺は本当に 瞬を――瞬が負った心の傷を少しでも消してやりたかったんだ。
今 瞬が笑ってくれるのなら、俺は喜んで死ぬこともするだろうと思った。
この状況で瞬に笑ってほしいと望むのは、それこそ無理な望みだとわかっていたのに。

俺に突然抱きしめられて、瞬はひどく驚いたようだった。
俺の腕から逃げようとも考えたらしいが、だが瞬はやがて俺の胸の中でしゃくりあげ始めた。
「ばかみたい……! 僕、ばかみたい。勝手に氷河に好かれてるんだと思い込んで、氷河のマーマと同じことを氷河にしてあげられたらどんなにいいだろうなんて、ばかな夢見て、僕、ほんとにばかみたい……!」
「瞬、すまん。許してくれ」

瞬がそんな気持ちで毎日俺にお茶を運んできてくれてたなんて、俺は考えてもいなかった。
マーマとの思い出を俺が忘れずにいさえしたら、俺は瞬の思いに気付くことができていたかもしれなかったのに、その時 俺の中にあったのはマーマを知らない人間によって作られた あの呪わしい姿だけだった。
瞬の中にあった、綺麗なマーマの思い出を汚したのは俺だ。
一輝の幻魔拳よりひどい汚し方で。
一輝なんかより、俺の方がずっと卑怯で自分勝手で悪党だ。
瞬は、死んで理想化されたマーマじゃなく、彼女の本当に美しい姿を憶えていてくれたのに。

「瞬、すまん……」
俺は、瞬の心を癒す術を持っていない。
だから、許されるはずもないことに、すまんと言い続けるしかなくて、そして瞬を抱きしめ続けることしかできなかった。

どれほどの時間そうしていたのか――。
それで傷付いた瞬の心を癒すことができたとは思わないが、少なくとも俺の胸の中で小さく身じろぎながら しゃくりあげていた瞬は徐々に静かになり、その小刻みな身体の震えも、いつのまにか止まっていた。
「ご……ごめんなさい、八つ当たりして……。氷河のせいじゃないのに」

瞬は、平生の瞬に戻りかけていた。
いかにも瞬らしい謝罪の言葉を告げて――それで、瞬は俺の腕と胸から解放してもらえると思っていたらしい。
だが、俺は瞬を離したくなかった。
瞬はやたらと抱き心地がいい。
俺の胸にちょうどすっぽりはまり込むサイズで、やわらかくて、浅い春の微風の匂いがする。
抱きしめているのは俺の方なのに、支えられているのも俺の方で――とにかく、俺は瞬を離したくなかったから離さなかった。

「氷河、いつまでこうしてるの」
瞬が困惑したように、俺に尋ねてくる。
「おまえが泣きやんで、俺の馬鹿ぶりを許してくれて、もう一度俺を好きになってくれるまで」
瞬は――もしかしたら瞬も、二人でそうしていることがそんなに嫌なわけじゃなかったのかもしれない。
俺の返事を聞くと、俺から離れようとする仕草をやめて、瞬は、
「じゃあ、もう少し」
と言って、俺の胸に頬を押しつけてきた。
もう少し待てば、瞬はもう一度俺を好きになってくれるんだろうか?
それなら俺は、その『もう少し』が100年だったとしても、ずっと瞬を抱きしめたままでいるだろう。
そうしていたいと、俺は思った。

実際には100年じゃなく、10分――いや、30分は経っていたんだろうか。
瞬を抱きしめているのが心地よくて、俺の時間の感覚は少し狂いかけていたような気がする。
自分がどれだけの時間 瞬を抱きしめ続けていたのか、俺はよくわからなくなっていた。
「氷河、寒くないの」
瞬が俺の胸の中で訊いてくる。
「少しも。むしろ熱いくらいだ」
俺は正直に答えた。
「熱い……って」

その時になって、瞬は俺が40度の熱を出していた病人だったことを思い出したらしい。
瞬が俺の様子を確かめようとして、俺の胸から逃れ出ようとする。
瞬を離したくなかった俺は、俺の胸を押しやろうとする瞬の腕を掴もうとした。
その時 地球が大きく揺れて――自分の身体の重心を見失った俺は、瞬に覆いかぶさるようにして、その場にぶっ倒れた。






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