「もう、ばかなんだから!」
「面目ない」
「熱があるのに! 風邪ひいてるのに!」
「悪かった」

無様にぶっ倒れた俺をベッドまで運んでくれたのは瞬のようだった。
瞬が見かけ通りに非力ではなく、むしろ大の男の5人分くらいの力を持っていることは知っていたが、それでも、俺が瞬の細腕で運ばれている図というのは、あまり美しいもののような気がしない。
美しくないどころか、そんな有り様は情けないし無様だ。
が、瞬は、そういう美しさにはあまりこだわりがなかったらしい。
自分のベッドで目を覚ました俺が、枕許に瞬の心配そうな瞳を認めて きまりの悪い顔をすると、瞬は一瞬ほっと安堵したような表情を浮かべた。
そして、俺を馬鹿だ間抜けだと ののしり始めた。
心配事が消えて安心したせいか、瞬は少しばかり口が悪くなっていた。

俺の馬鹿さ加減を責めながら、瞬はそれを俺の優しさだったと解しているらしい。
その口調は、無茶をする子供を心配して たしなめる母親のそれに酷似していて――優しかった。
俺の無分別を責めている間も、瞬の手は器用にまめまめしく働いていて、やがて俺の部屋の中にお茶の香りが広がり始める。
瞬は、ポットのお茶をカップに注ぎ、そしてその中にスプーンで ひとすくい分のジャムを入れて、くるくるとかき回した。

「はい、飲んで」
俺は今度は素直にそのカップを受け取って、その温かい琥珀色の液体を一口 口に含んだ。
甘い。
「マーマの入れたお茶と同じ味がする……」
「当たりまえです。昔、氷河のお母さんが使ってたジャムの壜がどんなだったのかを教えてもらったことがあったから、その時の記憶を辿って、ロシア製の同じものを探してきたんだから」
「……安物だったろう。俺とマーマの暮らしは つましいものだったから」

ロシア人がお茶にジャムを入れて飲むことは滅多にない。
大抵はサモワールで沸かしたお茶をヴァレーニエを舐めながら飲む。
だが、俺のマーマは、その滅多にないことをする人だった。
俺のマーマが その滅多にないことを習慣にしていたのは、ヴァレーニエよりジャムの方が――つまり、値段的に手頃だったからだ。

「うん……」
瞬は少し心苦しそうに頷いて、だが、すぐに気を取り直したように顔をあげた。
「氷河、あのね」
瞬が俺に何を言おうとしていたのか、俺は知らない。
ただ瞬に何か言われてしまう前に、俺は俺のただひとつの願いをどうしても瞬に伝えておきたかったから、瞬の言葉を遮った。
そして言った。

「すまん、本当はわかっていたんだ。一輝を苦しめたかったら、おまえを苦しめればいい。おまえを苦しめたかったら、一輝を苦しめればいい。そういう相手が生きて存在しているおまえたちが憎くて、羨ましかった。俺のそういう人は失われてしまっていたから。すべては俺の嫉妬から出たことで、俺のしたことにマーマは関係ないんだ」
俺は、俺だけのために あの浅ましい企みを企んだ。
俺は、そんなことのせいで、瞬の中にあるマーマの綺麗な思い出を 瞬に忘れたりなんかしてほしくなかった。
俺のためじゃなく、あの優しくて美しかった人のために。

俺がマーマのためにそう告げたのだということを、瞬はわかってくれたらしい。
瞬は、マーマを思う俺のために微笑を浮かべてくれた。
「……氷河が苦しんでたら、僕も苦しいよ。氷河が悲しかったら、僕も悲しい」
「瞬……」

なぜ今まで気付かずにいたのか、我ながら不思議でならないんだが、瞬はもしかしたら世界でいちばん綺麗な人間なんじゃないだろうか。
そうでないにしても、この可愛らしさは尋常のものじゃない。
瞬は――瞬は、まだ少しは俺を好きでいてくれるんだろうか。
嫌われて当然のことをしたのに、それでも瞬は――。

俺を見詰める瞬の眼差しは優しい。
瞬は、それでも俺を憎まない。
俺は瞬の綺麗な思い出を汚したのに。
いや、瞬の綺麗な思い出は、今でも綺麗なままなんだろう。
だから、瞬は、こうして俺のためにお茶をいれてくれる。
自分がどんなにつらい経験をしても、綺麗な思い出を綺麗なままにしておける瞬は、愚鈍なんじゃなく、強いんだ。
際限なく優しくて、だから強い。
俺なんかよりずっと。
俺は、今なら虚心にその事実を認め受け入れることができた。






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