瞬をあんな薄情な兄に任せてはおけない――と、氷河は思ったのである。
一輝が煮え切らないでいる理由など、氷河は考えもしなかった。
そして、氷河は、健気な弟に冷たい仕打ちをする一輝には腹を立てていたが、一輝が瞬に会おうとしない状況には実はさほど腹が立っていなかったのである。
むしろ その状況を好ましいことだとさえ、氷河は思っていた――感じていた。
一輝が瞬に会おうとしなければ、氷河には、一輝に代わって瞬に近付く機会と大義名分が与えられる。
一輝が瞬に自分が兄だと名乗らない限り、瞬の目は白鳥座の聖闘士にだけ向けられることになるのだ。

氷河は翌日も瞬のために果物の砂糖漬けを調達すると、それを持って瞬に与えられた部屋に出掛けていった。
「ありがとうございます」
氷河に小さな籠を手渡された瞬が、笑みを浮かべて氷河に礼を言ってくる。
「僕、これ大好きなんです。昨日いただいたもの、夕べのうちに全部平らげてしまいました」
瞬の微笑は心細げで、どこかつらそうな、いかにも無理に作ったものだったが、瞬が自分のために笑みを作ろうとしてくれていることが氷河は嬉しかった。
今は無理に作ったものでも、いつかそれを本物の笑顔にしてみせると、氷河は胸中ひそかに決意したのである。

「それなら、疲れもとれたか」
「はい」
「じゃあ、聖域を案内してやろう。一人でぼんやりしているのは退屈だろう? 少しは気が紛れるかもしれない」
「あ……でも……」
氷河の提案に、瞬は遠慮するような素振りを見せたのだが、氷河は、
「アテナにそうしろと命じられたんだ。命令を遂行しないと、俺がアテナに怒られる」
と適当なことを言って、瞬の手をとった。

アテナ神殿とアテナ像、教皇の間、闘技場、十二の宮――聖域はそれなりに広く、見るべきところも多くある。
当然瞬にはそれらすべてが初めて目にするもので――最初のうちは、(おそらく)氷河の親切に応えるために僅かな反応を見せるだけだったが、瞬はやがて“振り”ではなく素直かつ率直に それらのものに驚き歓声をあげるようになった。
瞬のその自然な反応は、もちろん 氷河を喜ばせた。
兄という心配事さえなければ、瞬は素直で鋭敏な感受性の持ち主なのだ。

瞬が仮の宿を与えられているアテナ神殿から始めて、十二の宮を順に辿っている途中、二人は、石段をのしのしと登ってくる牡牛座の黄金聖闘士に会った。
氷河の傍らにいる瞬の姿を認め、彼がその場で足をとめる。
何が嬉しいのか彼は豪快に破顔一笑し、
「おお、それが噂の お花ちゃんか」
と、辺りに胴間声を響かせつつ、瞬の頭をぽんぽんと叩いた。
「そのうち いいこともあるだろう。頑張れよ」
「あ……はい。ありがとうございます」
牡牛座の聖闘士は軽く撫でただけのつもりなのかもしれなかったが、“一般人”である瞬には、それは十分に痛みを感じることのできる衝撃だった。
教皇の間に行く途中だったらしい牡牛座の黄金聖闘士が再び石段を登り始めるのを確認してから、氷河は瞬に小声で尋ねた。

「痛かったろう」
「少しだけ」
「力の制御ができるのが聖闘士のはずなんだが」
氷河のぼやきを聞いた瞬が、肩をすくめて小さく笑う。
そうして瞬は、ひと渡り周囲を見回してから、呟くように言った。
「聖域って、もっと殺伐としているのかと思っていました」
「戦いがない時は、皆 呑気なものだ。ここは聖闘士や聖闘士になるための修行をしている者たちの生活の場でもあるからな。朝から晩まで臨戦態勢で緊張しているわけじゃない」

「そうみたい」
その事実は、瞬の心を安んじさせるものだった。
兄が本当に聖闘士としてこの聖域にいるのだとしても、戦いを生業とする者ばかりがいる この場所で、彼は孤独と緊張だけを強いられているわけではないだと、瞬は思うことができた。

聖域観光の途で、次に彼等が出会ったのは牡羊座の黄金聖闘士。
彼は牡牛座の黄金聖闘士のように瞬に危害(?)を加えようとはせず、戦う者のそれとは思えないほど やわらかい微笑を瞬に向けてきた。
「噂通りの可愛い子ですね。綺麗な目をしている。お兄さんにはいずれきっと会えますよ」
「ありがとうございます」
瞬がぺこりと牡羊座の黄金聖闘士に頭をさげる。
神のように美しい兄を捜してアテナの許にやってきた“一般人”の噂は、どうやら聖域中に広まっているようだった。

「あれが牡羊座の黄金聖闘士。今、聖域にいる黄金聖闘士は、あとは乙女座と双子座と蠍座くらいか。国に帰っている者もいる」
「皆さん、お強いんでしょうに、ちっとも尊大ぶったところがないんですね。本当に強い人って、そういうものなのかな」
聖闘士というものが尋常でない戦闘力を持つ人間だということは、瞬も知っていた。
その中で黄金聖闘士といえば、聖闘士の中でも最高位に位置する者たちである。
瞬は、彼等を自分と同じように感情を持つ人間だとは思っていなかった。――実際に聖域にやってくるまでは。
兄もここで人間ではないものになり、以前の人間らしい優しさを忘れ果てているのかもしれないと懸念してさえいたのだ。

アテナの聖闘士から見れば、瞬は何の力も持たない、取るに足りない“一般人”である。
にも関わらず、彼等は、そんな“一般人”の境遇を気にかけ、いたわってくれる。
聖闘士というものが人間離れした強さを持つだけのものでないのなら――強さと同時に優しさをも併せ持つ人間であるのなら、瞬もそういうものになりたいと思ったのである。

「兄さんを見付けて、家に帰ってもらったら――代わりに僕がここに来て、聖闘士になりたい……」
「おまえが聖闘士?」
口を衝いて出た思いつきにしては、瞬の声音には真情がこもっていた。
瞬の言葉が あまりに思いがけないものだったので、氷河はつい瞬の華奢な手足をまじまじと見詰め、その様を再確認してしまったのである。
「無理ですか、やっぱり」
氷河の視線を気まずそうに受けとめて、瞬ががっかりしたように肩を落とす。
氷河は慌てて首を横に振った。

「あ、いや。そんなことはない。聖闘士の力の源である小宇宙は、本来、肉体を使っての戦闘力とは無関係なものなんだ。もちろん、肉体も強靭な方がいいが」
「小宇宙……って、どんなものなんですか」
「小宇宙を使って戦っている聖闘士のくせに、自分でもよくわからないんだが、覇気というか、強い意思――いや、むしろ強い意識というべきかな。俺は、小宇宙というのは、人間と人間の生きている世界を愛し守ろうとする人の心が顕在化したものなんじゃないかと思っている」
その愛し方、守り方、戦い方は人それぞれであるにしても――と言いかけ、氷河はそうすることをやめた。
その理屈で言えば、一輝が健気な弟に冷たい仕打ちをするのも、彼なりの愛し方なのかもしれないということになる。
氷河は、だが、そんなことは認めたくなかったのだ。

「ここにいらっしゃる方々はみんな、そういう心を持った人たちなんですね」
「まあ、そうだな」
「僕の兄さんもそうなのかな」
「……多分」
瞬のためにそう答えないわけにはいかなかったので、氷河は渋々首肯した。
瞬が聖闘士というものに好意を持とうとしていることはもちろん、聖闘士について語ること自体が、聖闘士になった兄を肯定的に受けとめようとする瞬の気持ちの現われなのだろう。
それは聖闘士である氷河にとっても都合のいいことではあったのだが、彼は、瞬が兄のことを考え語ることが不愉快でならなかったのである。
瞬には、今 瞬の側にいる男のことだけを見、考えてほしかった。

が、氷河の望みは、実はその時既に叶っていたのである。
瞬はその時、氷河のことだけを思っていたのだ。――とんでもない勘違いをしながら。
「あの……違っていたらごめんなさい。もしかしたら、氷河が僕の兄さんなんじゃないですか?」
「なに !? 」
瞬はどうしてこう突拍子のないことばかり言い出すのか。
氷河はさすがに、瞬のその発想にはついていけなかったのである。
自分のことだけを考えてほしいと思ってはいたが、氷河が瞬に期待していたのは、そういう方向に向かった考えではなかった。
なにより、いくら何でも それは飛躍が過ぎる。

「氷河は僕の好きなものを知ってるし、僕に特別に優しくしてくれているように……あの……思えるんですけど」
「それはただ――いや、だが、おまえの兄は黒髪で黒い目をしているんだろう?」
「僕、はっきり憶えてないんです。兄さんがとても優しい心を持った人だっていうことしか。でも、そう、一輝兄さんの小宇宙なら、僕にもわかると思う」
もし、自分が聖闘士で、聖闘士の小宇宙を感じることができる存在であったなら――。
だが、瞬は、彼がこれまで出会った聖闘士たちの小宇宙を――最も強大な小宇宙を持つのであろう黄金聖闘士たちに対峙した時でさえ――感じ取ることができなかった。

小宇宙を感じるにも相応の力が必要なのだと、今では瞬にもわかっていた。
人の優しい心を正しく理解するためには、自分自身が他人に優しくできる人間でなければならないように。
この聖域で出会った強く優しい人たちの強さと優しさに甘えるだけでなく、彼等の強さと優しさを理解できるほどの人間になりたいと、瞬は思い始めていたのである。
瞬が聖闘士になりたいと考えたのは、決して兄の小宇宙を感じ取れるようになりたいというだけの理由からではなかった。

氷河に問われたことに答えてから、瞬は、自分が氷河にさりげなく話を逸らされてしまったような気がして、改めて氷河に向き直り、彼の瞳を見上げた。
「髪や瞳の色は変わることもあるって……。違うんですか?」
「俺は――」
一輝などと一緒にされたくないという気持ちは、もちろんあった。
だが、今の氷河には、そんな不愉快なことより、はるかに強く切実に瞬に伝えたい思いがあったのである。

「俺は、兄なんかじゃなく、おまえの恋人になりたい」
要するに、そういうことなのだ。
瞬が兄を求める健気と強さ。
それらのものが一輝に向けられることの無益と無意味。
瞬の価値ある思いは、その価値がわかり、それらを与えられることを喜ぶ者に与えられる方が合理的ではないか。
それが正しい世界のあり方だと 勝手に決めつけて、氷河は瞬に顔を近付け、その瞳を覗き込んだ。

「あ……」
瞬が驚きに瞳を見開き、息を呑む。
心細い思いをしていた自分に“特別に”優しくしてくれた人を、ここで押しのけてしまうわけにはいかない――と、瞬は思ったのかもしれなかった。
あるいは、氷河の告白が思いがけなさすぎて、反応らしい反応を示すことができなかったのかもしれない。
どちらにしても、氷河は、そこで ためらいを覚えるような男ではなかった。
瞬が動けずにいるのをいいことに、その腰に手をまわし、氷河は瞬の身体を抱き寄せようとした――時。
どこからか子供の拳大の石つぶてが飛んできて、それが氷河の脳天に見事に命中したのである。

「たっ……!」
聖闘士だからといって痛覚がないわけではない。
氷河は僅かに前のめりになり、その衝撃と痛みに耐え切れずに顔を歪めた。
「氷河、どうしたの! だ……大丈夫っ !? 」
「あ……ああ」
助平心にかられて油断していたところに、加速のついた石つぶてである。
氷河はもちろん あまり大丈夫ではなかったのだが、それでも彼は 瞬のために懸命に引きつった笑みを作った。

(あんの野郎ーっ !! )
石が飛んできた方向に目を向けなくても、この卑怯な攻撃を加えてきた犯人の正体はわかっていた。






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