『兄ではなく恋人になりたい』
氷河は、その言葉を至って真面目に、完全に本気で告げたつもりだったのだが、瞬はそれを冗談だと思っているようだった。
翌日 氷河が出会った瞬は、氷河の切なる告白などすっかり忘れてしまったかのように、そして思い詰めた様子で、彼の兄のことを語りだした。

「兄さんはここにはいないのかな。それとも死んでしまったのかな……」
「そんなことはない」
一輝の卑怯な攻撃より、星矢の無慈悲な提案の方に より大きな憤りを覚えていた氷河は、即座に首を横に振った。
そんな絶望を瞬に抱かせるわけにはいかないのだ。
人が生きていくために必要なものは、何よりもまず“希望”というものなのである。

氷河の否定は確たる根拠のあるものだったのだが、瞬はあまり元気になってはくれなかった。
覇気のない声で、呟くように言う。
「……聖闘士って何人くらいいるんですか」
「88人――かな。今現在、持ち主のいない聖衣もあるから、聖域が把握している聖闘士は60人ほどだろう」
「それだけの人の名前や出身地の確認をするのに、何日も時間がかかるものでしょうか」

聖闘士は全員が聖域に常駐しているわけではないのだから調査には時間がかかるのだ――等のことを言って、氷河が瞬の懸念をごまかし消し去ることができなかったのは、聖域の者たちが一輝をという名の聖闘士を捜すまでもなく見知っている事実を承知しているから――ではなかった。
「それとも、本当は見付かったけど、兄さんが僕に会いたくないって言ってるのかな……」
という瞬の呟きを聞いて、そんなごまかしでは瞬の懸念を消し去ることはできないと気付いたから――である。

「僕は……本当は兄さんのものだったものを すべて奪って、ぬくぬくとこの10年間を生きてきた 卑しい人間なんです。兄さんに憎まれたって仕方がない……」
自らの不幸な境遇や、徒労に終わったこれまでの兄の捜索を語る時には涙ひとつ零さなかった瞬が、ぽろぽろと その瞳から涙を零し始める。
父母の愛に恵まれなかったことや、当てもなく兄を捜し続けるつらさには耐えることができても、自分が兄に憎まれていることには――それがただの推測にすぎなくても――瞬には耐えられないことであるらしかった。

「そんなことはない。おまえの兄がそんな心の狭い男であるはずがないだろう」
なぜ自分は一輝を持ち上げるようなことを言っているのだと 自分自身に腹を立てながら、それでも氷河はそう言わなければならなかった――瞬のために。

「でも……」
兄に憎まれていること、兄に疎んじられていること以外に、この世に不幸も辛苦もないと言わんばかりに――瞬は氷河の慰めに慰められてはくれなかった。
兄を慕う瞬の心が あまりに強く深すぎて、それが氷河を苛立たせる。
その苛立ちを抑え切れず、氷河はつい言ってしまっていたのである。
瞬に冷たく当たる一輝への憤りと、兄を慕う瞬への憤りと、そして自分自身の願いを、氷河は瞬にぶつけてしまっていた。

「そうだ。おまえの兄は、おまえを見捨てて10年間好き勝手に生きてきた最低の男だ。そんな兄のことはさっさと忘れてしまった方がいい。兄のことなど忘れて――俺を見てくれ」
「氷河……」
「兄よりおまえの側にいてやる。俺はいつもおまえの側にいて、絶対におまえを寂しがらせたりしない」
冗談と笑って済ませてしまうにはあまりにも――氷河の口調と眼差しは真剣すぎた。
だが瞬は、氷河の訴えに驚くより先に、氷河によって強く抱きしめられてしまっていたのである。

「ひょう……が……」
激情にかられて瞬を抱きしめてしまってから――氷河は正直、瞬を抱きしめている自分に向かって、瞬の兄からの攻撃が加えられることを覚悟していたのである。
昨日よりも加速のついた石つぶて、昨日のそれより大きな岩塊、あるいは聖闘士としての力を用いた一輝当人の拳が、彼の弟を抱きしめている男めがけて飛んでくるものと、氷河は思っていた。
が、今日は何も起こらない。
一輝が今 この場面を見ていないはずがないというのに。

瞬の兄の作る静寂を奇異に思いつつ、氷河は瞬に口付けた。
瞬も――瞬は、氷河のキスに無反応だった。
逃げる素振りも喜ぶ素振りも見せない。
おそらく瞬は、自分の身の上に起こっていることを理解することもできずに、ただただ驚いているのだろう。
氷河は、それでもよかった。
瞬を抱きしめる腕に更に力を込める。

「俺に――おまえを守るために戦う権利をくれ」
もうずっと長いこと――母を失い聖闘士になってからずっと――氷河はそれが欲しかったのだ。
氷河が本当に欲しいものは、地上の平和でもなければ、正義の実現でもなく、自分が平和と正義を守るために戦うことによって幸福になってくれると信じられる人の存在だった。

同じ目的のために戦う 同じアテナの聖闘士でも、その愛し方、守り方、戦い方はそれぞれである。
氷河は、一輝とは真逆の戦い方をする男だった―― 一輝とは真逆の戦い方をしたい男だった。
愛する者を捨てて戦うのではなく、戦うために愛する人が欲しい。
愛する者のために戦いたい。
それが、氷河の望む戦い方であり、同時に愛し方だったのだ。

自分を拒まないことが瞬の答えなのだと氷河は思いたかったのだが、瞬は言葉での明答を氷河に与えてはくれなかった。
氷河も瞬にそれを求めなかった。
瞬には考える時間が必要なのだということが、氷河にはわかっていた。
これまで兄のことだけを考え探し求めていた瞬に、他の男への愛を抱くことを性急に求めることは、瞬を怖気おじけづかせることにもなりかねない。
それがわかっていたから、氷河は瞬に無理に即答を求めることをしなかった。

「俺がこれからも戦い続けられるように、おまえが俺の側にいてくれればいいと、俺は心から願っている」
自分の求愛が なるべく瞬の負担にならないように、言葉を選んで そう告げることだけを、氷河はした。






【next】