氷河が弟に近付き、それだけならまだしも けしからぬ振舞いに及ぶことを、一輝は黙認したくて黙認したわけではなかったらしい。
氷河への怒りが石を投げつけるだけでは済まないものになり、だがへたに聖闘士としての拳を振るってしまったら、その衝撃が弟にまで及ぶことを怖れて、彼はその危険な行為を すんでのところで思いとどまっただけのようだった。

瞬を部屋まで送り届けた氷河がアテナ神殿を出ると、そこには地獄の悪鬼のごとき形相をした瞬の兄がいて、白鳥座の聖闘士の登場を待ち受けていた。
が、怒りを覚えているという点では 氷河も一輝と同様――否、それ以上だったのである。
容易に自分のものにはできないものを、血がつながっているというだけのことで その手に収めている一輝を、氷河に憎み妬むなという方が土台無理な話だなのだ。

「貴様とは一度話をつけなければならないと思っていた」
「奇遇だな。俺もだ」
こういう場面でのお約束である やりとりをして、二人の男たちは場所を移動した。
彼等はさすがにアテナ神殿の真ん前でバトルを始めるわけにはいかなかったのである。
なにしろこれはアテナが固く禁じている私闘。
同じ理由で闘技場を使うこともできない。

聖域の奥の、もう背後にはスターヒルしかないという場所に着くと、彼等は無言で彼等の私闘を開始した。
――が、闘っている二人が沈黙を守っても、アテナの聖闘士二人が互いに憎悪に満ちた小宇宙をたぎらせ、本気以上の本気で――つまりは、相手の命を奪わずに勝利を収めるべく――渾身の力をもって戦いを始めたのである。
二人の小宇宙と二人の戦いは、すぐに聖域中の人間に感知されることになった。
何事かと訝って私闘の行なわれている場所に他の聖闘士や兵たちが集まってくる。
それらの人々の中に――どういうわけか、この私闘の原因である人物が一人混じっていた。

(なに、この押し潰されそうな――空気?)
それは、二人の聖闘士が作り出す 殺気を超えた殺気、更には怒り、妬心、闘争心や緊張感を伴った小宇宙――だった。
瞬は、だが、自分の感じているものが小宇宙だと認識することができなかったのである。
自分にはそれを感じ取る力はないと思い込んでいたせいで。

氷河が、誰か――異様に攻撃的な空気をまとった男――と戦っている。
二人の動きは“一般人”の喧嘩のそれなどとは段違いに速く、瞬には戦いの情勢を目で追うことすら困難だった。
困難ではあったが、全く見てとれないこともない。
瞬の目は、氷河と闘っている相手の男の拳が氷河の頬に傷を作ったのを認めることができ、その瞬間に瞬は この尋常でない力を持つ二人の争いを黙って見ていてはならない――と思ったのである。

聖域の住人たちは誰も、この戦いを止めさせるために動こうとはしない。
他人に頼ることはできないと悟った瞬は、だから、自分がそれをしたのである。
「やめてっ! 氷河に何するんです!」
瞬は、熾烈な戦いが繰り広げられている そのただ中に夢中で飛び込んでいった。
「瞬、来るなっ」
なぜか、瞬に向かってそう叫んだのは、氷河に拳を向けていた男――氷河の敵であるはずの男――の方だった。
「瞬、だめだっ!」
一瞬遅れて、氷河の声が辺りに響く。

氷河を庇うために、彼を抱きしめるように伸ばされた瞬の腕――。
一輝の拳は、1秒に満たない時間の経過後に氷河が立つであろう場所に向かって放たれていた。
その場所を、“一般人”であるはずの瞬が正確に察知して、拳と氷河の間に入り込む。
鳳凰座の聖闘士の拳は、その瞬を直撃し――そして、瞬の周囲を包む何らかの力によって、儚いしゃぼん玉のようにあっけなく跳ね返された。

「なにっ !? 」
瞬を氷河ごと包んでいるのは、紛れもなく小宇宙だった。
それも、異様なほど強く厚く、完全に攻撃的ではないのに、ありえないほど強固な小宇宙。
信じ難い光景に呆然となった氷河の敵を、瞬が振り返り、睨みつける。
「あなたは氷河の――アテナの敵なのっ !? 」

眉を吊りあげ誰何すいかしてくる瞬に、瞬の兄は驚き 目をみはることしかできなかったのである。
いったい今ここで何が起きたのか、鳳凰座の聖闘士には全く理解できていなかった。
それは氷河も同様で、そして、瞬自身も同じだったのである。
信じられないものが、瞬の目の前にあった。
「に……さん……?」
たった今まで氷河に向かって尋常でない力を用い拳を放っていた男――その男が、兄と同じ空気をまとっていたのだ。

氷河はアテナの聖闘士である。
彼に拳を向ける人間は、当然アテナの敵――地上の平和と安寧を乱す邪悪の者のはずである。
その男が、瞬を見詰めていた。
兄と同じ目をして。
いつも非力な弟を気遣ってくれていた優しい兄と同じ目をして。

「兄さんっ!」
次の瞬間、ありえないほど強大な小宇宙で白鳥座の聖闘士の身を守った“非力な一般人”は、鳳凰座の聖闘士の胸の中に飛び込んでいってしまっていた。






【next】