フランダースの犬






「そうだね、一緒に神様のところへ行こうか。僕たちは二人っきりで、僕たち以外に僕たちを必要としている人はいないんだ」
私の気の毒で可愛いご主人様がそう私に言った時、私は悲しい目をしてご主人様を見上げ見詰めることしかできませんでした。

ここで私がご主人様に、
『そんなことはありません。もう一度だけ頑張ってみませんか』
と訴えるのは無責任というものでしょう。
私は、生きる力も術も失ったご主人様に何をしてやることもできない、年老いて無力な犬にすぎないのですから。
そして、ご主人様の今の気持ちは、ご主人様に拾われる前の私の気持ち。
私には、ご主人様の気持ちがわかりすぎるほどにわかっていたのです。

私の前の飼い主はひどい男でした。
私たちフランダース犬は、ベルギーのフランダース地方で、主に荷車を引くために飼われている犬です。
走りまわることができるようになった小さな人間の子供よりも大きく、昔から つらい労働に従事させられてきたため筋肉が発達しています。
そして、大抵は、一生重い荷車を引き続け、働くことができなくなったらぼろくずのように捨てられてしまう。
それが大抵のフランダース犬の一生でした。

私もそんなフランダース犬の中の一頭でした。
私の前の飼い主は、私がまだ小さな小犬だった頃から、大きさも重さも私の身体の何倍もある荷車をエサもろくに与えずに私に引かせ続けました。
そして、私がもう一歩も歩けないようになると、長いこと私をこき使ってきたことへの感謝や謝罪の言葉など一言も口にせず、動けなくなった私に散々毒づいて、私を道の傍に捨てたのです。

死にかけていた私は、でも、これでやっとつらい仕事から逃れられる、もう生きる苦しみに耐えなくてよくなる、やっと神様の許に行けるのだと、前の飼い主に見捨てられたことを喜んでさえいました。
そんな私を拾って、何日も何日も優しく心尽くしの介抱をし、私を元の通りに動けるようにまでしてくれたのが、私の今のご主人様です。

ご主人様は本当に優しい方でした。
ご自分も食べるものに事欠いているというのに、毎日私のために無理をして食べ物を用意してくれました。
ご主人様はまだ少年といえる年頃で、とても貧しく、住んでいるところも家というより掘っ立て小屋のようなところでしたから、ご主人様が私に与えてくださる食べ物は 本当にささやかなものでしたが。
それでも、ほとんどエサらしいエサも与えられずに、休む間もなくつらい仕事を強いられていた以前の生活に比べたら、ご主人様との生活は私にとって天国での暮らしのようでした。
ご主人様が私にくださる食べ物には、いつも優しい気持ちが一緒に添えられていました。
あの時――前の飼い主に冷酷に道の傍に捨てられてしまった時――死ななくてよかったと、ご主人様に会えて本当によかったと、私は心から思いました。
私がご主人様と巡り会えたことは、神様が私に初めて垂れてくれた幸運、私には奇跡とも思える幸運だったのです。
それから、2年間、私はご主人様と貧しいながらも幸せな日々を過ごしてきました。

私の身に起こった奇跡と同じことが、これからご主人様の身の上に起きないと、誰に言えるでしょう。
私は本当はご主人様に生きていてほしかった。
ですが、そんな苦痛をご主人様に強いて、私に与えられたものと同じ奇跡がご主人様には与えられなかったとしたら――私はご主人様の苦痛を長引かせただけ、ということになってしまいます。

私は犬だから耐えられたのです。前の飼い主の非情な扱いにも、毎日毎夜 強いられる つらい仕事にも。
ですが、ご主人様は同胞である人間に顧みられず、見捨てられ、飢えと孤独の中に 今為す術もなく佇んでいるのです。
ご主人様が生きることに絶望するのは仕方のないことなのかもしれません。

ご主人様は心の清らかな人です。
断言してもいいですが、罪と呼べるようなことを、ただの一度も犯したことがありません。
欲らしい欲を持ったこともなく、貧しさも、守ってくれる親のないことも、神に与えられた試練と考えて、神が人に行なうことを許した良いことだけをしてきました。
控えめで、正直で、善良で、誰も傷付けず、誰かに傷付けられても その人を恨むことなく、無言で耐えてきました。

「人間は、神様がくださるものを、良いものでも悪いものでも受け取らなければなりません」
村の教会の神父様が言うことを、ご主人様はいつも黙って聞いていました。
そして、いつも静かに頷くことをしました。
神父様は、私のご主人様に言葉以外の何も与えてくれませんでした。
パンの一切れを恵んでくれたこともない。
ですが、ご主人様はしばしば村の教会に通っていました。
ご主人様と口をきいてくれる人間は、狭い村の中に神父様しかいなかったのです。
ご主人様を迎え入れてくれる家も、あの掘っ立て小屋の他には村の教会しかなかった。
貧しい孤児であるご主人様に、大人たちは好んで近付こうとはしませんでしたし、彼等は自分の子供たちにもそうするように言っているようでした。

私たちは、村の農家から牛の乳を預かって、それを数キロ離れた町まで運び、町に住む人たちに売る仕事をしていました。
私は、ミルクの入った缶を載せた荷車を引く手伝い。
でも、ある日私は足に怪我をしてしまい、重い荷車を引くことができなくなりました。
ご主人様は、その仕事の代わりに、村の家々の使い走りや庭の手入れの仕事をもらって、何とかその日の食べ物を手に入れる生活を続けていたのですが、そんな仕事は毎日あるものではありません。
ご主人様は借りていた小屋の借り賃を払うことができなくなり、その小屋を――隙間風の入る古くて小さな小屋でしたが、それでもそこは私たちの唯一の家でした――追い出されてしまったのです。

空からは、昨日からの白い雪が降り続いています。
黒い夜空から、雪たちは冷たく輝く星のように残酷に私たちの上に舞い降り、私たちを凍えさせました。
神父様も、今は暖かい家の中にいるのでしょう。
住む家を失ったご主人様がやってきた教会の礼拝堂は、ひっそりと冷たく静まりかえっていました。

「ここは教会だもの。ここで死んだら、きっと神様のところに行けるよ。一緒に神様のところに行こう」
私はご主人様の言葉に頷き、ご主人様に寄り添いました。
私は老犬とはいえ毛の長い大型の犬でしたので、ご主人様に死の時が訪れるまで、少しでもご主人様の細く小さく凍える身体を温めてやりたいと思ったのです。

私は、死は恐くありません。
私は、人間の歳にしたら、もう90歳は軽く超えている老犬です。
ご主人様に出会うまではつらく苦しいだけの日々を過ごしてきましたが、人生の最後の数年間をご主人様と共に生きることができて、私は本当に幸福でした。
私は、ご主人様を本当に一人きりにしてしまいたくないという気持ちだけで、今まで老いた身体から気力を振り絞って生きていたようなもの。
ご主人様と一緒にいられるというのであれば、死など怖れるものではありません。

私たちは住む家もなく、食べるものもなく、この寒さから逃れる術も持っていませんでした。
私たちは見捨てられた二つの命でした。
私と、私の可愛いご主人様。
虐げられ死にかけていた私を救い、愛してくださったご主人様。
一緒に神の御許に行けるのであれば、私には何の不満もありません。
飢えて凍えたご主人様は私を抱きしめて目を閉じ、やがて動かなくなりました。
そして、私も――今の私たちにとっては唯一の救いであるはずの死へと繋がる眠りの中に、静かに沈んでいったのです。






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