私を目覚めさせたのは、ご主人様の悲鳴でした。 「どうして僕を助けたりするの! あなたがこんなことをしなかったら、僕は今頃、神様の許で、今度こそ幸せになれていたはずなのに……!」 ご主人様が らしくもなく強い口調で誰かを責めていました。 私は、ご主人様がそんなふうに昂ぶった声を出すのを聞くのは初めてでしたので、本当に驚きました。 ご主人様はいつも、どんな時にも物静かで控えめで、すべてを受け入れ諦めて微笑んでいるような人でしたから。 もしかしたら ご主人様は、一度死を覚悟して、恐れるものがなくなってしまったのかもしれません。 ご主人様の声は、それでも涙声でしたけれども。 彼――私が夕べ神様だと思った人――は、いつのまにか部屋着を身につけて、ベッドを出ていました。 ご主人様の涙ながらの悲鳴を、ベッドの脇に立って無言で受けとめています。 私はその時になって気付いたのです。 私が夕べ神様だと思った男が何者だったのか――に。 彼は神様ではありませんでした。 いつも遠くからご主人様を見ていた男――見ているだけだった男。 他の人間たちと同じように。 思い起こせば、彼はいつもご主人様を見詰めていました。 ご主人様が小さな身体で重い荷車を引いて町の通りを歩いていた時、ご主人様がこのお屋敷でミルクを買ってもらい代金を受け取っていた時、他の人たちに厄介者呼ばわりされていた時、仕事が欲しいと村の家々を訪ね歩いていた時、犯していない盗みの罪を着せられて非難されていた時、私たちが暮らしていた家を追い出されてしまった時。 彼はただ無言で――他の人々と一緒になって ご主人様を責めるでもなく、かといって、救いの手を差しのべることもなく――ただ黙って私のご主人様の打ちひしがれた姿を見詰めていた。 人間には、貧しい人間と豊かな人間がいます。 豊かな人間は、ご主人様を卑しい孤児と蔑み、貧しい者たちは、そんなご主人様を遠くからただ見ているだけでした。 豊かな人間と貧しい人間の、どちらがよりご主人様に冷酷な者たちだったでしょう。 ご主人様を蔑みながらも仕事を与えてくれる豊かな人間たちの方が まだましだったのではないかと、私は思います。 私のご主人様を死の淵から救ってくれたのは、そのどちらでもない人間でした。 彼は大きなお屋敷に住む豊かな人間で、そして、ご主人様をただ見ていただけの人間でした。 「神だと? そんなものが本当にいるとおまえは信じているのか? もしそんなものが本当にいるのだとしたら、おまえはもっと幸福な人間になれていたはずだ。この世におまえほど神の御心に適った生き方を実践している人間はいないんだからな。嘘をつかず、貧しく、何も求めず、理不尽なことで侮辱され傷付けられても黙って耐え、悪事をしたと罪人の疑いをかけられても弁解もせず、顔を伏せているだけで――」 彼はご主人様を嘲るように、ご主人様の悲鳴よりきつい声音でそう言いました。 それは、昨夜 慈しむようにご主人様の冷えた身体を温めてくれていた人と同じ人間の言葉とは思えないほど辛辣で、そして事実でした。 私のご主人様は、確かにそういう方です。 ですが、それは人に責められるようなことでしょうか。 「それで神の国に行って満足か? 『おまえは本当に正直で美しい心の持ち主だった』と神が褒めてくれるとでも思っているのか? 神はおまえを褒めたりはしないぞ。おまえは人としての務めを何も果たしていないんだから」 「人としての務めって何? 神様の与える試練に耐えること? 貧しさや人の冷酷に耐えること? それなら、僕はできる限りのことをしたよ」 彼の言う“人としての務め”が ご主人様の言う通りのものであったなら、ご主人様はもうとっくに、豊かな人間の一生分の試練を耐えたあとだと、私も思います。 彼の言う“人としての務め”が ご主人様の言うこととは違っているのなら、それはいったいどんなことなのでしょう? 人は――いいえ、この地上に生きとし生けるものは――苦しみと悲しみに耐えるためだけに存在するのではないと、彼は言うのでしょうか? 彼は、ご主人様の質問には答えてくれませんでした。 「いいか。おまえが今死んでも、おまえは、おまえを死に追いやった者たちに、この世界で何も成し遂げなかった無為の者と言われるだけだ。おまえは、おまえが死ぬことで、おまえに救いの手を差しのべてやらなかった者たちが、罪のない者を虐げて追い詰めて殺したと、自分たちの非情を後悔するとでも思っているのか? だとたら、それは心得違いというものだぞ。確かに奴等は少しは後悔するかもしれない。だが、すぐに忘れようとする。自分たちが無慈悲なことをして、純粋な子供を死に追いやったという罪を負いたくはないからな。おまえが死んでも無意味だ。奴等は何も変わらない」 “奴等”の仲間がいったい何を言っているのでしょう。 彼の言葉に、私は大きな憤りを覚えました。 「無意味なら、放っておいてほしかった……」 「綺麗なまま死ぬことなど許さない」 それは、彼が自分の罪を認めたくないからでしょうか。 罪のない無垢な者を苦しめ見捨てた罪を我が身に負いたくないから? だとしたら、それは卑怯というものです。 「だから生きろと言うの? でも、それは無理なことだよ。僕にはもう生きる術がないんだから。住む家も食べ物もお金もないんだから……」 「そして、俺のように汚い人間に施しを求めることは、プライドが許さないというわけか」 「僕には、誰かから施しを受けても、代わりに返せるものがない」 ああ、ご主人様! それは、私が知る限り、私のご主人様の唯一の欠点でした。 誇り高くて、決して人の哀れみを受け入れない。 自分は神の御心に添うた罪なき人間だと信じているから、汚れた人間に借りを作ることを潔しとしない。 ご主人様は、ご自分の才能や清らかさを正当に評価されることを望んではいましたが、貧しいことや不運なことを他人に哀れまれる事態は決して望んでいなかったのです。 人の冷たい心や無関心に耐えながら、ご主人様は、自分から人に優しさを求めることは決してしなかった。 仕事の代価以外のものを人に求めることを、ご主人様は絶対に良しとなさらなかったのです。 その頑ななまでの潔癖が、私のご主人様の唯一の欠点。 ご主人様を不幸にした元凶ともいえるものでした。 「あるさ。おまえは美しい」 彼は、ご主人様の顎を掴むようにして持ち上げ、ご主人様の顔を上向かせて言いました。 「ゆうべ一晩おまえを抱いていてわかった。俺はおまえに欲望を覚える。俺の浅ましい欲望を受け止める仕事をするというのはどうだ?」 「そんなこと、神様がお許しに――」 ご主人様は真っ青になって、彼の手を振り払いました。 私にはよくわかりませんでしたが、それはご主人様にとって神の御心に背く大きな罪と思えること――だったのでしょう。 「おまえの考えでいけば、生きるということは、神の与える試練に耐えるということなんだろう? おまえは生きるために――神の与える試練に耐えるという神の望みを果たすために、いやいや俺に屈するんだ。神は、神の与えた命を 人が勝手に消し去ることを大きな罪としている。神に与えられた命を勝手に消し去ることより、生きるために汚らわしい人間から加えられる理不尽な仕打ちに耐えることの方が神の御心に適うのではないか? 神も大目に見てくれるだろう。おまえは、そうしたくてするのではなく、神の与える試練に耐えるために、神のために、俺の慰みものになるんだから」 「……」 彼の言うことは詭弁のような気がしました。 神の御心に添うために 神に禁じられた罪を犯せと、彼はご主人様に言っているんです。 生きるための術を与えられたご主人様が 自ら死を選ぶことは、確かに神の御心に背くことでしょう。 ですが、生きるために罪を犯せとご主人様に言うことは――ご主人様に誇りを捨てろと言っているのと同じことです。 ご主人様を蔑み、あるいは ただ見ているだけだった者たちと同じ汚れたものになれと言っているのと同じことです。 ご主人様は、命を永らえるために汚れた者たちにおもねってパンを恵んでもらうことよりも、誇りを守って飢えて死ぬことの方を選ぶ人間なのに! 「ともかく、服を着て食事をとれ。早く俺の夜の相手ができるほどの体力をつけることだ」 ご主人様は彼を睨みつけました。 私は、こんなふうに人への憎悪をあからさまにするご主人様を見るのは初めてでした。 これではまるで――そう、まるで普通の人間のようです。 私は……なぜでしょう。 ご主人様が普通の人間に それはご主人様のためには 本当は良いことなのではないかと思ったのです。 どうするのかを決めるのは、ご主人様でしたけれども。 |