ご主人様は徐々に健康を取り戻していきました。
健康を取り戻すと ご主人様は本当に綺麗な少年で――この町中――いえ、国中を探しても、ご主人様より綺麗な人間はいないと、私には断言できます。

健康になれば、彼の“慰みもの”というものにされることがわかっていましたので――生きる決意をしたというのに、ご主人様は自分が健康になることを望んではいないようでした。
食事もわざと少なくとっているように、私には思えました。
けれど、何日も食べるもののない生活を続けてきた そのあとに、毎日毎食 温かく栄養のある食事を出され、それらに少しずつとはいえ口をつけていたら、どんな人間も健康にならないわけがありません。
ましてご主人様は、本来はとても健やかで病の類も持っていない少年でしたから。

とはいえ、ご主人様が十分に健康になっても、彼はご主人様に何もしようとはしませんでした。
彼はご主人様に広くて暖かい部屋を与えてくれたのですが、ご主人様は毎晩、自分の部屋のドアがふいに開くことを怖れていました。
「恐いよ。僕はいつ罪を犯すことになるの」
震えながら、すがるように私の身体を抱きしめて過ごしたことも一度や二度ではありません。

2ヶ月ほど、ご主人様はそんなふうに怯えながら夜を過ごしていたのですが――。
ご主人様はやがて、そんなふうに怯えているだけの状態に耐えられなくなったようでした。
今はすっかり健康になった身体を、この町のどんなお金持ちの子弟も着たことがないような上等のリンネルのシャツと上着に包み――まるでおとぎ話に出てくる王子様のようでした!――、ご主人様はある夜、彼の書斎のドアを自分から押し開いたのです。


ご主人様が彼の部屋のドアを開けた時、私はご主人様の脇をすり抜けて、ご主人様より先に彼の書斎に入り込みました。
ご主人様が私を部屋の外に追い出さなかったのは、閉じられた空間で彼と二人きりになることを、ご主人様が怖れていたからなのだと思います。
そして、彼が私を部屋から追い出そうとしなかったのは、私が従者のようにご主人様の側に控えていようがいまいが、彼にはどうでもいいことだったから――でしょう。

最初彼は、ご主人様が自分から彼の部屋を訪ねたことを意外に思ったようでした。
ご主人様が血の気の失せた白い頬をして、
「僕は、あなたに慰みものにされるのではないの」
と尋ねると、彼は僅かに口許を歪めた笑みを作って、
「そうだ」
と短く答えました。

「なら――」
ご主人様は自分を叱咤するように一度その唇を噛みしめました。
けれど、どうしてもその先を言葉にすることはできなかったらしく、そのまま下を向いてしまったのです。
彼は、そんなご主人様を冷ややかに一瞥すると、大きな樫の木のデスクのひきだしから書類を一枚取り出し、それをご主人様の前に指し示しました。
「ここに書いてある通り、来週からしばらくの間、月水金の3日間、おまえのための家庭教師がくる」
それは思いがけない言葉でしたが、ご主人様はその言葉に驚くより先に、両の拳をきつく握りしめたのです。
馬鹿にされたと思ったのでしょう。
私のご主人様は学校に行ったことがなく、読み書きができませんでした。

彼は、自分の矛盾した言動に気付いているのかいないのか、
「その家庭教師について、おまえは読み書きを覚えろ」
と言ったのです。
「え?」
「学校に行ったことがないんだろう? それでは困る」
「どうして」
「一生俺に奴隷として仕えるという契約書に署名できないではないか」

文字が書けなければ、そんな書類に署名せずに済みます。
私はここは意地を張らない方がいい場面だと思ったのですが、ご主人様は意地を張り――そして、むっとしたような顔になったのです。
「名前だけなら書けます」
教育を受けていないこと――は、ご主人様の欠点の一つでした。
いいえ、唯一の弱み、欠けた点でした。
親が金持ちだというだけで学校に通うことができ、ご主人様には読むことのできない本を抱えた同年代の子供たちを見る時、ご主人様がどれほど悲しく苦しい思いを味わっていたのかを、私だけは知っています。

「そうはいかん。契約というのは、俺とおまえが契約書の内容を理解し、二人が署名して初めて成立する。文字を読めない者に、俺にだけ有利な契約への署名を強いたとなると、俺が罪に問われることになるんだ。俺はおまえのために罪人になるつもりはない。おまえには俺の命令を拒むことは許されない」
「あ……」
その唯一の弱点を、ご主人様の上から取り除いてやろうと、彼は言うのです。
彼の目的はともかくとして。


ご主人様は結局、彼に『嫌だ』と言うことができませんでした。
本当は意地を張って そう言いたかったのかもしれませんが、彼が強いてくる苦難は、ご主人様にとってあまりにも魅力的な苦難だったのです。
それに、彼の持ち出してきた契約書にサインするまでは、自分の身の上に恐ろしいことは起こらないと思えることは、ここ2ヶ月の間ご主人様を怖れさせていた漠然とした不安を消し去るものでもありましたから。






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