彼がご主人様のために組んだカリキュラムは、かなり困難で異色なものでした。
最初は、アルファベットを覚え、オランダ語で書かれた絵本を読むところから始まりました。
普通は、次にもう少し難しいテキストに進むものだと思うのですが、彼が用意した次の課題はフランス語の絵本、そして、ドイツ語の絵本。
それらがすべて読めるようになってから、ご主人様はやっと もう少し絵の少ない書物を与えられたのです。
彼は、ご主人様を三つの言語での読み書きができるようにするつもりのようでした。
ご主人様の飲み込みが早いという報告を受けると、彼は家庭教師を3人に増やし、日曜以外のすべての日に勉強の時間を組み込み、その内容も国語だけでなく、算数、化学、物理、地理歴史に神学と、週が変わるごとに増えていきました。

私が自慢していいこととは思えませんが、私のご主人様はとても賢い方です。
学校に行く余裕はなかったのですが、時々村の学校の教室の窓の外で授業を盗み聞いているだけで、お金の計算もできるようになりましたし、国の歴史も頭の中に入っていました。
学校の教師が変わった時に、一度校内から追い出されて、それからは授業の盗み聞きもできなくなってしまったのですが。

ええ、ご主人様は賢いのです。
賢いから、プライドが高く、生きるのがへたなのです。
美しいご主人様が哀れな様子で頼めば、パンを一切れ恵んでくれる者はいくらでもいたはずです。
ご主人様は、でも、それをしなかった――できなかったのです。

村の子供たちは――歳が上になるにつれて勉強を嫌いになっていくことが多いようでしたが、ご主人様はそんな子供たちとは違っていました。
教えられることが難しくなればなるだけ、その瞳は輝き、勉強時間が増やされれば増やされるほど、喜びに頬を上気させました。
それはそうでしょう。
ご主人様にとって知識を身につけるということは、ご主人様の唯一の弱点を克服することであり、ご主人様の誇りに見合った“力”を手に入れることだったのですから。

私は勉強なんて嫌いです。
嫌いになりました。
それは、私とご主人様を引き離すものでしたから。
本を読み始めると、ご主人様は私がそこにいることも忘れたように本の世界に没入してしまうのです。
その上、家庭教師がやってくると、ご主人様は私を部屋から追い出してしまう。
以前は事あるごとに私に話しかけ、私を抱きしめてくれていたご主人様がです。
私は時々、ご主人様の勉強中にその部屋に飛び込んでいって、変な眼鏡をかけた家庭教師に吠えついてやろうかとすら思いました。

「邪魔をしては駄目だぞ」
そんな私を引きとどめたのは彼でした。
ご主人様と一緒にいられないことに苛立っている私の頭や背を撫でて、彼は私に言いました。
「おまえの主人は、美しいだけでなく賢い」
私が同意して喉を鳴らすと、彼は、『おまえには俺の言うことがわかっているようだな』と独り言のように呟いて、声を出さずに笑いました。

改めて間近で見ると、彼はヒトという生き物の中では かなり美しい造形を備えた人間だということが、私にはわかりました。
犬に人間の美醜がわかるのかと疑う人もいるかもしれませんが、それくらいのことは私にもわかります。
直立歩行をする人間は、脚が長くまっすぐな方がいい。
頭を支えるために、胸や首の筋肉が発達している方がいい。
素早い運動ができるように、余計な肉はついていない方がいい。
呼吸がスムーズにできるように、鼻梁は曲がらずに通っていた方がいい。
彼は、人間という動物としては、ほぼ完璧な美を備えていました。
それでも、私の目や嗅覚は私のご主人様の方が美しいと感じるのですから、まあ結局 人の美というものは――少なくとも犬にとっては――心で認めるものなのだとは思いますが。

その彼が私の頭を撫で、しみじみした口調で言います。
「おまえがいてくれてよかったよ。でなければ、瞬は、俺が何を言っても、何をしてやっても、意地を張って死んでしまっていただろうから」
ご主人様の目や耳のあるところでは、彼は私を無視しきっていましたが、ご主人様のいないところでは、彼は私にとても優しくしてくれました。
特にご主人様が“勉強”を始めて私に目を向けなくなる時間には、その分彼が私の相手をしてくれた。

私は、彼に好意を持つようになっていました。
彼は本当は優しい人なのだと思いました。
もしかしたら彼は、私のご主人様のように意地っ張りで不器用な人なのかもしれない――と。

彼――彼の名は氷河というようでした――は、ご主人様を侮辱したり、怒らせたり、怯えさせたりしましたが、そうしながら、ご主人様に住む場所と食べ物を与えてくれた人です。
ご主人様が切望していた知識と教養を与えてくれて――結局はご主人様のためになることをしてくれている。ご主人様の望みを叶えてくれている――。
ご主人様を侮辱したり怒らせたりするのも、そうしなければ、ご主人様は彼から何も受け取ろうとしなかったでしょうから仕方のないことのような気がします。
彼は、ご主人様のプライドを利用して、ご主人様にそれらのものを受け取らせてしまったのです。
あんなに賢いご主人様が、そのことに気付いていないのでしょうか。
だとしたら、彼は不器用なのではなく、とても器用な人間なのかもしれません。

そうですね。
ご主人様に憎まれることが彼の本意でないのなら、彼は不器用。
むしろ憎まれたいと思っているのなら、彼は器用な人間なのでしょう。
いずれにしても、彼は相当頭のいい人間なのだと思います。
結局はご主人様を自分の意図した通りに動かしているのですから。

こういう人間が努力を惜しまず幸運に恵まれれば、こんな立派なお屋敷に住めるようになるというわけです。
私は大いに納得しました。
そして、彼に恵まれたような幸運が私のご主人様の身の上にも降ってこないものかと考えたのです。






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