「おまえは知識意欲もあり勉強熱心で、普通の子供の5倍のスピードで知識を吸収していくと、雇った教師たちが感動していたぞ。こんなに真面目で覚えのいい生徒は初めてだと」 「どうも……ありがとうございます」 彼に褒められることを、ご主人様は素直に喜べずにいるようでした。 それはそうでしょう。 彼はこれまで、侮辱や皮肉以外の言葉をご主人様に言ったことがなかったのですから。 「が、おまえにあまり利口になられるのは、俺には都合が悪い」 彼に褒められている時には不安そうな目をしていたご主人様が、いつもの彼らしい発言を聞かされて、ほっと安堵したように身構えます。 それはとても矛盾した反応でしたが、ご主人様の気持ちが、私には何となくわかりました。 万一彼が優しく親切な人であったなら、ご主人様は困るのです。 優しく親切な人を憎むのは“良くないこと”ですから。 「来週から、物理と神学の時間を半分に減らし、その分の時間を絵画の歴史と技術習得にあてることにした」 「ぼ……僕に絵の勉強をさせてくれるの……?」 ご主人様の声が震えます。 それくらい、ご主人様は彼の言葉に驚いたのです。 読み書きよりも歴史や計算の方法よりも、それはご主人様が学びたいことでしたから。 ええ、私のご主人様は絵を描くのが大好きなのです。 とてもお上手です。 読み書きは学校に行かなければ覚えることができませんが、絵は木炭がひとかけあれば描くことができます。 ですから、ご主人様はこれまでずっと、自分の訴えたいことを文字の代わりに絵で訴えてきていたようなものでした。 「させてやるのではない。『しろ』と命じているのだ」 「それは……でも、なぜ? なぜ、そんなことをするの」 ご主人様は、彼の“命令”があまりに思いがけなくて、不審に思ったようでした。 私には、彼がなぜそんなことをするのか、薄々わかっていましたけれど。 彼がそんなことをするのは、それがご主人様の望むことだから――に決まっています。 「投資だ。知らなかったのか? おまえは、おまえが前に住んでいた家を追い出される直前に、市主催の絵画コンクールに絵を一点出しただろう。木炭の黒一色で描かれた犬の絵だ。派手に絵の具を使いまくった極彩色の平凡な絵に賞は奪われてしまったようだが、おまえには並外れた才能があると言って、おまえをコンクールの賞から外した審査員の一人が、賞の発表の直後、おまえを探してあのボロ小屋まで行ったらしい。おまえはもう、あの小屋を追い出されたあとだったがな」 「どうしてそのことを僕に教えてくれなかったの!」 ご主人様の語気は荒くなりました。 ご主人様の憤りは当然のことです。 ご主人様は、あの絵画コンクールの結果に最後の望みを託していらした。 あのコンクールで入賞すれば、努力と才能の代償として多額の賞金と名誉が手に入り、それでご主人様は命を永らえることができていたはずでした。 それができなくなって――賞を他の者に奪われて――自信と希望を失ったご主人様は、自分はもう死ぬしかないと思ったのですから。 「もちろん、俺がおまえを使って儲けるためだ。おまえの才能を認めながら 見栄えだけのする凡庸な絵に賞をやってしまうような輩に、俺は おまえの才能を託す気にはなれない。そんな愚か者は、おまえの才能を殺して、おまえの手で生み出されるかもしれない傑作をこの世に出せないような指導をするかもしれないじゃないか」 「そんな……」 彼の言うことは正しいのかもしれません。 いえ、正しかったでしょう。 ですがご主人様は――もし あの時、『君には才能がある』と一言誰かに言ってもらえていたなら、賞金は手に入らなくても自信だけは取り戻し、もう少し生きてみようと思えるようになっていたのかもしれないのです。 それもまた事実でした。 「おまえの犬がいなかったら、おまえはとっくに死んでしまっていただろう頃に、そんな知らせを持ってきて何になる。意味のない、遅れてやってきた使者だ。おまえには俺がもっといい教師をつけてやる。絵画の歴史と技術だけをおまえに教え、おまえの才能を殺す可能性のない者を」 「……」 ご主人様が黙り込んでしまったのは、彼の言葉に従った方が自分にとって有益だということが わかっていたからだったでしょう。 彼がこれまでにご主人様のために雇い入れてくれた家庭教師たちは皆、高名な学者ではありませんでしたけれど、一流の教育者たちでした。 いくらご主人様が賢くても、指導する者が未熟だったり劣悪だったりしたならば、ろくに文字も書けなかった人間が、僅か数ヶ月で三ヶ国語を自在に操れるようになどなるわけがありません。 「おまえには才能があるそうだ。ちょっとしたテクニックと良い画材があれば、今のままでも、国立美術館の館長が『試しに一枚買ってみるか』と思えるレベルの絵を作りだせるほどの。今年のコンクールに作品を出品しろ。木炭だけで描かれた絵に賞など与えられないと言って、おまえの絵を落選させた審査員共に 目にもの見せてやるんだ。ただし、人物画は駄目だぞ。風景か動植物の絵がいい。今のおまえには人を描くことはできないだろう。人間の絵など描きたいとも思わないだろうしな。画材を用意する」 「あ……」 ご主人様が何も言えずにいるうちに――彼は翌日には、ご主人様が彼の命令に従える環境を整えてくれました。 彼が雇った絵の教師の授業は、ご主人様にはとても興味深いものだったようです。 ご主人様はこれまでずっと独学で――言ってみれば手探りの状態で絵を描いてきました。 自分が作り出すものに自信を持ってはいましたが、その自信にはいつも不安がつきまとっていた。 彼がご主人様につけてくれた教師は、ご主人様から少しずつ その不安を取り除いていってくれたのです。 それでもご主人様は、始めの頃は意地を張って、彼が揃えてくれた画材を使わずに木炭だけで絵を描いていました。 けれど、そのうちに、彼が用意してくれた絵の具を使ってみたいという誘惑に耐えることができなくなったようです。 自分が学んだことを、最高の道具を使って作品にしてみたいという誘惑に、ご主人様は抗しきれなかったのでしょう。 そうしてご主人様は、『誰もいない部屋』という絵を描きあげたのです。 彼の書斎に、私が静かにゆったりと佇んでいる絵。 その絵は、1年前 ご主人様に死を決意させたコンクールで最高の賞を取りました。 |