それから更に1年。 ご主人様の身のまわりは激変していました。 そんな ある夜、ご主人様は彼の許に行き、彼に告げたのです。 「契約書、ください。サインします」 ――と。 ご主人様がどういうつもりでそんなことを言い出したのか、私にはわからなかった。 ご主人様の言う契約書というのは、一生彼の奴隷でいると誓う、あの契約書のことでしょう。 そんなものにサインをすると自分から言い出すなど、狂気の沙汰です。 彼もそう考えたようでした。 彼はご主人様に落ち着いた口調で言いました。 「もう その必要はないだろう。おまえの絵は売れている。俺がおまえのために使った金と同額の金もまもなく回収できる。無論、相応の利子はつけてもらうがな。そうしたら、おまえは自由の身だ」 「僕を、ここから追い出すの!」 ご主人様は彼のその言葉を聞いて、真っ青になりました。 ご主人様に帰ることのできる家はないのです。 ご主人様を“自由の身”にして、いったい彼はご主人様にどこに行けというのでしょう。 頬から血の気の引いたご主人様に、けれど彼は事もなげに答えたのです。 「ここを追い出されても、おまえは路頭に迷うわけではないぞ。今のおまえが絵を一枚描けば、3間続きの高級なアパートメントを借りられる。大作を3枚描けば、家を買うこともできるだろう。 今のおまえなら、どこの家でも名誉と思って逗留を受け入れてもくれる。小品を一枚描いてやれば、それが木炭で描かれた黒一色の絵であってもな」 木炭で描かれた黒一色のご主人様の絵。 それは1年前には何の価値もないものでした。 彼の口調が皮肉げだったのは、いかにご主人様の絵が素晴らしいものであったとしても、その絵に値をつけるのはご主人様でも絵の購入者でもなく“権威”なのだということを揶揄するためだったのだと思います。 そんなことはご主人様も――誰よりも ご主人様こそが―― 十分に承知していました。 けれど、ご主人様が今 彼に訴えたいのは そんなことではなかったようです。 「僕は……あなたに救われなかったら死んでいた。その借りがお金に換算できるものだとは思えない」 それは事実を告げた言葉でしたが、私のご主人様にしては殊勝な言葉でもありました。 彼は無言で――それがご主人様を更に狼狽させたようでした。 「ぼ……僕の命は、そんなに安いものじゃない……!」 一度は捨てようとした命。 その命を“安いもの”でなくしたのは、ありとあらゆる意味で彼です。 ご主人様ではない。 ご主人様は、それもよくわかっていました。 いつになく取り乱した様子のご主人様を 無言で見詰めていた彼は、やがて静かに 低い声でご主人様に尋ねてきました。 もうその質問を発してもいい頃だと、彼は判断したようでした。 「生きていてよかったと思うか」 けれど、ご主人様の答えは、彼が期待していたものとは違うものだった――のでしょう、多分。 ご主人様は一言、 「いいえ」 と、挑むような目をして彼に言い放ったのです。 「なに?」 「どうして僕に、生きていることはいいことだなんて思うことができるの。誰も僕を愛してくれないのに」 「そんなことはない。今のおまえは誰にでも愛される人間だ。おまえには才能があり、成功が実現しつつある。未来が開けている。おまえの絵の値段を知っているか。おまえはまだ16かそこいらだというのに、おまえが1週間で描きあげた絵は、どこぞの銀行家の年収より高額なんだぞ」 でも、そんなふうにして得られたものを“愛”と呼ぶことができるものでしょうか。 彼は本気でそう考えているのでしょうか。 ええ、確かにご主人様は画家として成功しかけています。 ですが、成功した人間が必ずしも愛に恵まれるとは限りません。 だからご主人様は恐いのです。 この家を追い出されてしまうことが。 彼の側にいられなくなることが。 「成功したから与えられる好意なんて信じられない。成功する前の僕を愛してくれる人は誰もいなかった。無一物だった頃の僕を愛してくれたのは――」 挑むような響きを帯びていたご主人様の声からは徐々に力が失われていき――結局、ご主人様はご主人様が言いかけた言葉を最後まで言うことができませんでした。 ご主人様の目は 切なげに、『それはあなただけだった』と彼に訴えています。 けれど、ご主人様のプライドが、ご主人様にそう言うことを許してくれないのです。 ご主人様は唇を噛みしめ、私に悲しそうな目を向けてきました。 「誰も僕を愛してくれなかった。僕を蔑まず、僕の側にいてくれたのは、僕の犬だけだった」 ご主人様の不器用を、ご主人様が本当に言いたい言葉を、彼がわかってくれるようにと、私は心から願いました。 私が犬でなかったなら、右手で十字を切って神に祈っていたことでしょう。 「今のおまえは無一物ではない」 「あの頃の僕が本当の僕だった。自分を罪を犯したことのない清らかな人間と信じ、だから傲慢で思いあがっていた。僕の価値を認めてくれるのは もう神しかいないと思ったから、僕はあの時死を選んだ。僕は――」 「なら、わかるだろう。あの頃のおまえを愛せと人に求めるのは無理なことだ。何も持っていないくせに誇りだけが高く、自分は誰も愛していないくせに、愛されることを求め――その上、あの頃のおまえは世界に失望し、世界を見捨てかけていた。そんなふうに生きる意欲のない者を愛してどうなる」 「あなたは……! 氷河は!」 それでも彼はそんなご主人様の命を拾いあげてくれました。 ご主人様はそれを彼の愛だと思いたいのです。 私だってそう思います。 もしそうでないというのなら、いったい私たちは彼の親切を何という名で呼べばいいのでしょう。 「撤回します。生きていてよかったと、僕は今では思っている。罪を犯しても、人を傷付けても生きていたいと思う」 「なぜだ」 「なぜかはわからない……」 それは嘘だと私は思ったのです。 『わからない』だなんて。 人が生きていたいと思うのは、希望があるからです。 あるいは未練が。 してみると、未練というものと希望というものは似たものなのかもしれません。 今のご主人様には欲しいものがあるのです。 もしかしたら自分はそれを手に入れることができるのではないかという希望がある。 そして、ご主人様が欲しいものは――ご主人様を救ってくれた人の愛情なのです。 なのにご主人様は正直に素直に そう言うことができない――。 「僕に欲望を覚えると言ったじゃない! あれは嘘だったの」 噛みつくように、ご主人様は彼を問い質し、 「嘘だ」 彼は素っ気なく答えました。 ご主人様の綺麗な顔が、今にも泣き出しそうに歪められます。 私は、こんなご主人様を見るのは これが初めてでした。 「嘘……? なぜそんな嘘を言ったの」 なぜ人は誰も彼もが嘘をつくのでしょう。 『嘘だ』と告げる彼の言葉――いいえ、その言葉の冷たいほどの素っ気なさこそが嘘だと、私は思いました。 あの時 彼は、ご主人様を見捨てたとしても 何の損もしなかった。 ご主人様を助けても何の得もしなかった。 人は非力な子供を見捨てることに罪の意識を覚えるものかもしれませんが、あの時 彼はそんなものを感じる必要もなかったのです。 だって、ご主人様を見捨てるのは、彼ひとりではなかったのですから。 あの時、ご主人様は、この世のすべての人間に――いいえ、この世界そのものに見捨てられかけていたのです。 にも関わらず、彼はご主人様を助けてくれた。 ええ、絶対にそれは――彼の冷たさは、嘘です。 なのに、ご主人様は彼の言葉の冷たさを信じたようでした。 誰かに――人に――愛されたことのないご主人様には、愛というものがどんなものであるのかが わからなかったのでしょう。 愛する者のために人は嘘をつくこともあるのだということが、プライドを守るためにしか嘘をついたことのないご主人様にはわからない――。 ご主人様は もしかしたら、彼に“慰みもの”にされたかったのかもしれません。 彼と共に暮らしているうちに、そう望むようになっていたのかもしれません。 けれど、彼がご主人様に与えてくれたのは、食べ物と住む家と、ただ一つのものを除いた ご主人様の望むものすべて 私から見れば、何の見返りも期待できない貧しい少年にそれらのものを与えることは、十分に優しさと呼べる行為だったのですけれど、ご主人様はそうは思っていないようでした。 いいえ、ご主人様はそんな優しさとは違うものを、彼に欲していたのかもしれません。 控えめで、大人しく、多くのものを望まず、罪を犯さず、人々の無慈悲・無関心に弱々しい笑顔で じっと耐え続けていたご主人様。 けれど、ご主人様の胸の奥に嵐のように激しい情熱が渦巻いていることを、私は知っていました。 ご主人様が何を本当に求めているのかが、彼はわかっているのでしょうか。 それとも やはりわかっていないのでしょうか。 今にも その瞳から涙が零れ落ちそうな様子のご主人様を目の当たりにしても? 彼は、そんなご主人様に静かに語り始めました。 |