「俺の母は――おまえに似ていた。誰からも見捨てられ、虐げられ、貧しく非力で不幸で――。だが、俺の母はおまえとは違い、俺を愛していた。俺の命を守るために彼女は死んでいった。その死も、彼女には満足できるものだったろう。彼女は、彼女に無慈悲だった人間たちの誰をも憎んでいなかったと思う」
「氷河の……お母さん……?」
「だが、俺は、母を見捨てた世の中を許せなかった。俺は、母を虐げた社会を見返すために成り上がった。そのために どんな冷酷なこともした。非情なこともした。そうしなければ、俺は人間の社会で人間として認められることができなかったから――認められないのだと思ったからだ」
彼のお母上――。
それはさぞかし美しい女性だったに違いありません。

彼が突然語り出したことに困惑して、ご主人様は僅かに目をみはりました。
“二人”の話をしているところに そんな女性に割り込まれることを、ご主人様は不快に思ったのか、それとも、彼が彼の身の上を語ってくれることを嬉しく思ったのか、それは私にはわかりません。
いずれにしても、思いがけない人物の登場に、ご主人様が驚き戸惑ったことだけは事実だったでしょう。

「ある日、俺は偶然通りかかった小さな村で おまえに会った――おまえを知った。おまえは、俺の母と同じように、罪を知らず、虐げられ、貧しく、非力で弱い人間だった。俺の母と同じように、人々の冷酷や無関心を許しているようにも見えた。おまえと俺の母との ただ一つの違いは、おまえが俺の母とは違って、誰も愛していなかったことだけ。愛する者のためではなく、無慈悲な社会に絶望して死を選んだことだけだった。俺は、おまえが死の淵から生者の世界に引き戻された時、一度は死を覚悟したおまえが、次にはどんなふうな生を選ぶのか興味があったんだ」

彼の言葉が事実を語ったものだとしたら(おそらく そうなのでしょうが)、彼がご主人様の命を救ったことに 愛情や優しさといった感情は伴っていなかったことになる。――のでしょうか。
もしあったとしても、それはご主人様に向けられたものではなく、彼を愛して死んでいった母君に向けられたものだった――と?
だとしたら、それは、彼の親切を愛情から出たことと思いたいご主人様には、無慈悲や無関心より残酷な事実です。
そんなことを知らされてしまったら、今度こそご主人様はすべてに絶望し 自暴自棄に陥ってしまう――。
そう 私は思いました。

が、私の懸念に反して、ご主人様は彼の告白を聞いても取り乱したりはしませんでした。
「氷河は……お母様の姿を僕に重ねて、僕に同情しただけだったの」
彼にそう告げたご主人様の声は、むしろ落ち着いたものでした。
「同情ですらない。俺は実験をしたいと思っただけだ」
なぜ? と、私は疑ったのです。
なぜご主人様は、そんな話を聞かされて こんなに落ち着いていられるのかと。
その答えはすぐにご主人様から与えられました。
「同情でも実験でもいい。僕を氷河の側に置いて。僕は氷河の側にいたいの。氷河の実験も同情も氷河の冷酷も氷河の素っ気なさも、すべてを愛と思っていたいの。それだけで生きていける。僕は氷河が――」

ご主人様はその先を言葉にすることが、まだできないようでした。
ですが、ご主人様が言葉にできなかった言葉が、私の耳には聞こえていました。
そして、理解しました。
私のご主人様は、愛されることより先に、愛することを覚えた――覚えつつあるのだということを。

「あさましいと思う? 僕は、自分が生きていくために氷河が必要なの。氷河がほしいの」
『あなたが好きだ』と、『僕はあなたを愛している』と、素直に言うことのできない不器用なご主人様は、そういう言い方をしました。
彼ならそれだけでも十分に ご主人様の気持ちをわかってくれるだろうと、私は思いました。
ですが、彼は――ご主人様の気持ちがわかっているはずの彼は――突然 妙なことを言い出しました。

「……今ならまだ、おまえは何も罪を犯していない。神も喜んでおまえを神の国に受け入れてくれるだろう。だが、おまえが俺と共に生きるということは――」
ためらいでできているような彼の言葉を聞いた私は、彼はいったいご主人様にどういう生き方をしてほしいと願っていたのかが わからなくなってしまったのです。
彼は、ご主人様に、それでも人の世の冷酷を拒み続ける清らかな人間でいてほしかったのでしょうか。
そして、もう一度 罪を知らぬままの死を選ぶような人間であってほしかった?
いいえ、そんなはずはありません。

「今更 僕に神の許へ行けとでもいうの…… !? 氷河は僕が死んでしまっても悲しくないの…… !? 」
私のご主人様が悲鳴のように叫び、長い時間――本当に長い時間――をおいてから、彼はやっと、そして とても短く、
「悲しい」
と言いました。
そう言ってくれました。
初めて、嘘ではない言葉を、彼はご主人様に与えてくれたのです。
彼のその短い答えを聞いたご主人様の瞳からは、これまでずっと耐えていたのだろう涙が、初めて一粒零れ落ちました。

「僕は氷河を悲しませたくない。だから、生きていたい。これは……愛だと思う」
「……」
「氷河が破産して、絶望して死にかけていたら、僕は氷河の命を救う。何が何でも救う。憎しみが氷河の生きる糧になるというのなら、氷河に憎まれてもいい。憎まれるために何でもする。氷河に生きていてもらうためになら、罪も犯す……!」
彼と同じように――。

ご主人様はわかっていたんです。
彼が何のために、ご主人様に冷たい嘘ばかりついていたのか。
彼がご主人様に望んでいたこと――それは、ご主人様が生きていること――だったのだと。
それでもご主人様が汚れた世の中を拒み続けるか、逆に憎むようになるのか、そんなことは彼にはどうでもいいことだった。
彼はただ、ご主人様に生き続けていてほしかったのです。
生きてさえいれば、人は幸福になれるかもしれないのですから。
ご主人様はちゃんと、彼の気持ちがわかっていたのです。

ええ、私のご主人様は賢い方です。
ただ、愛だけを知らなかった。
それを知ったなら――ご主人様は、あとはもう幸福になるしかないではありませんか。
たとえ彼がご主人様に愛を返してくれなかったとしても、たった今 神にその命を奪われてしまったとしても、ご主人様はおそらく永遠に幸福な人間であり続けることでしょう。
彼のお母上と同じように。
そして、彼も神も、ご主人様に対してそこまで冷酷ではありませんでした。
彼も神も、ご主人様を愛してくれていた。

「結局、人が生きていくのに必要なものはそれ・・なのか。俺もおまえも」
彼は独り言のように、そう呟きました。
私は彼の呟きに、顔を伏せるようにして頷きました。
そうです。
それだけが必要なのです。
人が生きていくには、人が幸福になるには、それだけが――愛だけが――唯一無二の必要条件。
それさえあれば、人は死んでも生き続け、人は死んでも幸福であり続けることができる――。

彼は、その腕で強くご主人様を抱きしめ、その唇に彼の唇を重ねました。
ご主人は生き返ってから初めて、心から嬉しそうに微笑んで、彼の首と髪に腕を絡めていきました。
「氷河……氷河、大好き……!」
ご主人様がこんなふうに無防備に、こんなふうに明けすけに、誰かを好きだということがあるなんて。
ご主人様が、私以外の誰かに、こんなふうに。

温かく優しく幸福感に充溢したご主人様の心の気配を、私がどれほど嬉しく思ったか。
そして、どれほど安心することができたか――。
ご主人様は生まれて初めて、人に従うことしか知らない犬ではなく、ご主人様と同じ心を持った人間を愛することを知ったのです。

あまりに嬉しくて――その嬉しさをどう表現すればいいのかわからずに その場にうずくまっている私に気付くと、彼は私の頭を撫で、そして言いました。
「おまえのご主人を慰みものにしたりはしないから、しばらく外に出ていてくれるか」
彼の言わんとするところが私にはよくわからなかったのですけれど、私は彼の言葉に従いました。
二人は二人が生きていくために、命を与え合うのだと思いました。
これからもずっと、そうして二人は生きていくのでしょう。

美しく、罪を知らず、それゆえに誇り高く、いつも人に虐げられるだけだった、私の可愛いご主人様。
今度こそ ご主人様は幸福になれるだろうと信じて、私は二人のいる幸福で暖かい部屋を出たのです。






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