かわいい君






「星矢は、『かわいい』っていう言葉を 普通どんな時に使う?」
「へ?」
「星矢は、どんなものを『かわいい』って思う?」
瞬がふいに仲間たちにそんなことを訊いてきたのは、冬の寒さも峠を越え、あとほんのしばらく待てば春の兆しを感じることができるようになるに違いないという時季。
冬と春の間に ふと生じる空隙のような日の午後だった。
木の芽時にはまだ早すぎるこの時季に、瞬はなぜ突然そんな妙なことを言い出したのかと、星矢は胸中ひそかに訝ることになった。

「まあ、ちびっこい犬がちょこちょこ走ってるのを見た時とか、かなあ」
「ちびっこい犬……」
星矢の答えは あまり瞬を喜ばせるようなものではなかったらしい。
瞬は僅かに落胆したような顔になり、今度は紫龍に向き直った。

「紫龍は? 紫龍はどう?」
「そう改めて訊かれると……。俺自身は滅多に使わない語彙だな。まあ、普通は小さくて、少々弱々しい感じのする愛らしいものに冠する形容詞なんじゃないのか? 確か、もともとは哀れみを覚える気持ちを表わす言葉だったものが転じて、愛情を覚える気持ちを表現する言葉になった――と聞いた記憶があるが」

「……」
紫龍の言葉を聞いた瞬が黙り込む。
瞬は、いつも――というわけではないが――どちらかといえば笑顔を浮かべていることの多い人間である。
敵と対峙している時はともかくも、平時の日々の暮らしの中で暗い表情を作り 仲間たちの居心地を悪くするようなことは滅多にしない。
その瞬を、ここまで沈んだ面持ちにさせるようなことを言ったつもりのなかった紫龍は、瞬の作る沈黙に少なからず気まずさときまりの悪さのようなものを覚えたのである。
ややあってから、瞬は、いかにも言いにくそうな様子で、そして蚊が鳴くように小さな声で、
「小さくて弱々しい――かな、僕」
と仲間たちに尋ねてきた。

星矢と紫龍は、それで何となく事情がわかってしまったのである。
『かわいい』という言葉が、この城戸邸で、誰が何に対して いつ どのように使う可能性があるのかを考えれば、瞬の沈鬱の理由は自ずから明らかになるというものである。
その言葉をこの城戸邸で最も頻繁に使用するのは、今このラウンジにいない金髪男であるに違いないのだ。

「なに? おまえ、氷河に『かわいい』って言われて落ち込んでんのかよ?」
「あ……」
星矢の推察は図星だったらしい。
仲間の言葉を否定せず、瞬は、腰掛けていた3人掛けのソファの端で その身体を小さく縮こまらせた。
そんな瞬を見て、紫龍は微妙に口許を引きつらせることになってしまったのである。
ここは笑うべき場面なのか、はたまた瞬に付き合って深刻になるべき場面なのか、彼には咄嗟の判断がつかなかった。

「『かわいい』という言葉には、『愛情を感じずにはいられない』という意味もあるぞ。氷河にそう言われたとしても、それは特段 落ち込むようなことではないと思うが」
「けなされてるわけじゃないんだし、可愛げがないって言われるよりいいじゃん」
「それはそうだけど……」
紫龍や星矢の言うことは、瞬もわかっているのだろう。
そして、それがわかっていても、氷河の『かわいい』を素直に嬉しく思うことのできない事情が、瞬にはあるらしい。
仲間たちの慰めや励ましを聞いても、瞬の表情は明るいものにはならなかった。

「氷河は、おまえを弱々しい奴だなんて思ってないから、安心してろ。その点は俺が保証する」
なぜ瞬がそんなことで落ち込むことができるのか、星矢には合点がいかなかったのである。
自分が備えている小宇宙の力を、瞬が自覚していないはずはないというのに。
少なくとも自分が日本国内で5本の指に入る豪傑の1人だということを、瞬が知らないはずはない。

「でも、自分と同等かそれ以上だって思ってる相手に、人は『かわいい』なんて言ったりしないものでしょ、普通」
この場合 問題なのは、日本国内で5本の指に入る豪傑が全員 この城戸邸を根城にしているということなのかもしれなかった。
その中の約一名は、現在日本国内にいるのかどうかすらわからなかったが。

「そーでもないんじゃないか。そこいらへんの女の子たちなんてさ、なに見ても『かわいい』で済ませるきらいがあるぜ。自分よりでかい男だの、歳くったおっさんに対しても、平気で『かわいい』って言うんだよな。美穂ちゃんなんか、こないだ自分の3、4倍は体積のありそうなでかい相撲取りをテレビで見ててさ、そのでかい男が滅茶苦茶口下手なの見て、『かわいー』を連発してた」
「それは……美穂ちゃんは、そのお相撲さんが自分より口下手で、自分より劣ってるって思ったから、『かわいい』って言ったんでしょ」
「……」

瞬の推論は、あながち間違いとは言えないものだったろう。
だが、そこから「氷河は瞬を自分より劣ったものと認識しているから『かわいい』という言葉を使うのだ」という結論に至ることは確実に間違っている。
しかし、瞬は、その間違った考えに固執してしまっているらしい。
「なにやら重症のようだな」
いつになく素直でない瞬を まじまじと見やり、紫龍は低く呟いた。

星矢はといえば、そんな他愛のない一言で落ち込んでしまえるアテナの聖闘士というものが、その存在が、容易に受け入れ難く、また 信じ難かったのである。
そんなことでいちいち思い悩んでいて、いったいどうやって瞬は地上の平和を守るための戦いを戦うつもりでいるのだ。
「あのさ、氷河はさ、あの見てくれで古風な日本人気質なとこあるからさ、『好き』とか、その……何だ、『アイシテル』とか気軽に言えねー奴なんだよ。だから、そういうのの代わりに『かわいい』って言ってんじゃねーの? ベタベタのガイジンさんならともかく、恥ってもんを知ってる日本人には言いにくいセリフだと思うぜ、アイシテルってのは」

そう告げる星矢の『アイシテル』のイントネーションがそもそも異様に不自然である。
確かにそれは一部の日本人には気軽に言いにくい言葉なのだろうと、瞬は思った。
瞬自身にとっても、それは、言えといわれて すぐに躊躇なく口にすることのできる言葉ではない。
星矢の意見には一理あると思う。
思いはするのだが。

氷河が囁く『かわいい』を瞬が素直に受けとめることができなくなったのには、それなりの事情と経緯があったのだ。
すなわち、
「あの……あのね。氷河が僕に『かわいい』って言うのは、ベッドの中でだけなんだ」
――という事情が。






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