シベリアに戻った俺は、意想外に忙しい日々を過ごすことになった。
聖闘士になる修行中 俺が暮らしていた家は、雪原の真ん中にぽつんと建っているログハウスのような建物だった。
真冬には海からの寒風が吹きすさび、人々の住む町から遠く離れて不便この上ないこの場所に、いったい誰がどういう考えで家を建てたのかは知らないが、それでもその家が頑丈なことだけは確かで、数年振りに帰国した俺は、その家がまだ壊れずに建っていることに感動した。

が、家というものは、そこに暮らしている者がいて初めて生きるものであるらしい。
数年間無人だった家の中は、ほとんど死にかけていた。
そこを人間が生活していける状態にするのに、俺は半月をかけた。

沙織さんは日本人の生涯賃金に相当する額が振り込まれている銀行口座を、俺たち それぞれの名義で作っていてくれた。
3、4億は入っていたと思う。
比較的物価の安いロシアでは、それは日本の数倍の価値がある金額だ。
働かなくても生きていけるからこそ、俺は、自分がすべきことを見付けなければならないと思った。
アテナの聖闘士でいる時にはそんなことを考えたこともなかったというのに。
亡くなった人たちの墓守をして暮らすという考えは、もうなくなっていた。
彼等が俺に望んでいることは“俺が生きること”だとわかっていたから。

幸い、それはまもなく見付かった。
とはいえ、それも沙織さんの口利きがあってのことだったが。
グラード財団がかなりの額を出資している海洋調査機関の本部が、シベリア連邦管区唯一の都会といっていいノヴォシビルスクにあった。
それは、シベリアから北極圏までの広範囲に渡って環境調査をする機関で、シベリアに多くの基地を構えていた。
そのうちの一つ――クラスノヤルスクにある基地に、俺は職を得ることができたんだ。
地球温暖化の問題で二酸化炭素排出量の削減義務を負わされている各国の企業が潤沢な資金をつぎこんでいる その調査機関で、俺は調査員のような仕事を請け負うことになった。

寒さに強く、地理に明るく、極寒の海にも平気で潜っていく俺は、基地内ではかなり重宝された。
肉体労働だけでなく――カミュに仕込まれた自然科学一般の知識は、学位を持つ学者たちにもひけをとらないもので、俺に有利に働いた。
仕事に就く場所が僻地と言っていいくらいの場所だったせいもあり、志願者も少なく、俸給もかなりの額。
俺は、沙織さんが俺のために作ってくれた口座の金に世話になることもなかった。
むしろ、滅多に町に出ようとしなかった俺には、金を貰っても使う当てがなく、俺の口座の預金額は増える一方だったと思う。

俺は、傍から見れば、偏屈な一人暮らしをしている奇妙な男だったろう。
家族がいるわけでもないのだから基地内で寝起きをすればいいのに、基地から軽く10キロは離れた場所にある家から自分の足で通ってきて、普通の人間なら1時間も潜っていれば疲労困憊する極寒の海に平気で数時間潜り続け、データを提出するとまた自分の足で家に帰っていく。
“普通の”人間たちには化け物じみていると思われていたらしい。

だが、こんな辺境の地に好んでやってくる学者・調査員たちは一癖も二癖もある奇矯な奴等が多く、俺は基地の中でさほど浮いてもいなかったと思う。
まあ、それも、俺がそう“思う”だけのことで、俺は事実はどうだったのかは知らないし、知ろうとも思わなかったが。

町にいて事務仕事をしているより高額の手当てがつくというので、短期間だけ基地にやってくる職員もそれなりにいた。
中には女性も多く、どういうわけか俺に誘惑めいたことを仕掛けてくる物好きもいたが、俺は彼女等を相手にしなかった。
というより、できなかったという方が正解かもしれない。
瞬という稀有な存在を知ってしまったあとでは、俺の目には、瞬以外のすべての人間が色褪せたものとしか映らなかったんだ。

俺は、瞬を、滅多に我を張ることのない、どちらかと言えば大人しく地味な人間だと思っていたが、それは間違った認識だった。
間違った認識だったということに、“普通の”人間たちの中で生きるようになって、俺は知った。
瞬は、普通の人間に比べれば、段違いに鮮烈で鮮明な存在感の持ち主だったことに、俺は瞬と離れて生きるようになってから初めて気付いたんだ。
常に快い緊張感を身にまとい、敏捷で、頭がよく、勘もよく、感受性に優れ――なにより瞬は美しかった。

ブリザードが吹きすさぶ頃には、俺は基地に閉じ込められることが ままあった。
家に帰ろうとしても、危険だというので引きとめられてしまうんだ。
あるいは調査のために遠出をしてキャンプを張り、数日間 他の調査員たちと生活を共にする機会もあった。
生身の人間と寝食を共にすると、まあ、人間の動物としての面を目にすることもあるわけで――。

俺は、“普通の”人間の身体があれほど醜いものだということを知らなかった。
こんな辺境の基地での生活を志願し、着任が許されるくらいなんだから、彼等も健康で、それなりに頑健な肉体の持ち主ではあるのだろうと思う。
しかし、聖闘士のそれに比べると、彼等の身体には あまりにも無駄な肉が多く、必要な肉がついていなかった。
すべてのバランスが悪くて、動作に敏捷性がなく、勘も鈍い。

聖闘士だった頃には、そうしなければ生き延びることができなかったから、俺たちは肉体の鍛錬を怠ることがなかった。
それが当たりまえのことだったから、気付かなかったんだ。
瞬が、まず生物として非常に優れた、尋常でなく美しいヒトだったということに。

瞬は、時には驚くほど積極的だったが、普段は俺の求めを決して拒まない従順なイメージの強い人間だった。
実際、仲間内では、瞬は最も控えめでおとなしい人間だったろう。
が、肉体的にも精神面でも、あれほど強く、バランスがとれ、鮮やかな人間は、現実にはなかなかいないものらしい。

俺は、今まで美しく優れた人間たちだけに囲まれて生きてきて、それを当たりまえだと思っていたから、瞬の価値に気付いていなかったのかもしれない。
いや、そういう環境にあっても、俺の心を惹きつける存在は瞬だけだったんだから、瞬が極めて魅力的な人間だったことは自明の理というもの。
そんなことに、今になって気付く俺の方が愚鈍なんだ。
自覚していなかったとはいえ、そんなふうに世界最高のものを食い続けていた男に、いきなりジャンクフードを食えと言われても、それは無理というものだ。

普通の人間たちの中では、瞬ほどではないにしろ――こんな俺でも一目置かれる存在だった。
本部のある都会からは遠く離れた辺境の地。
聖闘士でいた頃に比べれば、そして聖闘士であった俺にとっては、その過酷な自然環境も何ということはなかったが、普通の人間にはそこでの生活は死と隣り合わせのものだった。
そういう場所では、経験より、若さと肉体の強靭さ、生きるための勘が鋭いこと、生命力が旺盛であることの方に、より大きな価値がある。

俺はそれを持っていた。
ある意味では、“普通の”人間社会でしか生きたことのない者たちより、知識も経験もある。
出世欲も野心もなかったから特段の地位を与えられることもなかったが、それでも、やがてクラスノヤルスクの基地は、俺なしでは立ち行かないほどになっていた。






【next】