日本は春だった。
春の午後。
風が温かく、雪と氷の冷たい白ではなく、やわらかい春の花の白が俺を迎えてくれた。
瞬は沙織さんの私設秘書兼ボディガードのようなものをしていると、俺は聞いていた。
それも2年以上前の情報だったが、その情報に訂正が入らないところをみると、今もそうなのだろうと俺は思っていた。

そちらに行くという一報も入れずに、俺は空港から城戸邸に直行した。
その門前に立ってから、俺は、自分がまだまだ普通の人間の生活習慣や礼儀を身につけていないことに気付くことになった。
誰が入手しても問題になることのない情報を扱っている某辺境の基地とは違って、城戸邸はアポイントメントもとらずにふらりと訪問できる場所ではなかったんだ。
そもそも瞬や沙織さんが今 邸内にいるとも限らない。
門の守衛の男は、俺の知っている顔をしていた。
身元の確実な人間しか雇い入れない この家は、滅多に人の入れ替えをしない。

頼めば門内くらいには入れてくれるかもしれない――と俺が考え始めた時、車用門を通って黒塗りの車が邸内に入っていった。
沙織さんかと思ったのだが、そうではなかった。
そうではないだろうことを、俺はすぐに察した。
まるで大型トラックの運転しかしたことのないドライバーが操っているような、大雑把で無神経な車の動き。
こんな乱暴な運転をする車に、沙織さんが乗るはずがない。

それが沙織さんを訪ねてきた客人なのであれば、沙織さんは邸内にいることになる。
僅かに気を安んじた俺の前で――と言っても、俺が立っているところから その車までは2、30メートルほどの距離があったが――乱暴に停車した車の助手席から、不意打ちのように姿を現わしたのは瞬だった。
1キロ離れたところにある漂流物を見極められる俺の視力がなくても、その隙のない身のこなしですぐにわかる。

瞬は、淡い色の春用のスーツを着ていて――少し髪が伸びていた。
俺がここにいることに気付いた様子はなく、運転席の人間に一言二言声をかけてから、瞬は顔をあげた。
そして、俺は息を呑むことになった。

瞬は、すさまじく綺麗になっていた。
もともと可愛らしい顔立ちはしていたし、その面影は確かに残っているというのに、以前の瞬とは何かが違っている。
幼さが少し抜け、かといって大人びたわけでもなく、だが違っていた――何かが。

以前の瞬は、こんなふうに一目で見る者に衝撃を与えるような美しさを持ってはいなかった。
もっと密やかで、もっと控えめで、無意識にでも他人に誇示するような美しさを備えた人間ではなかった。
だいいち、瞬は男で、人間で――なのに何だ、これは。
人間の男が持ち得る美しさではない。
もちろん、女のそれでもない。
あまりに独特すぎて、適当な比喩が思い浮かばない。

無性の、美しくはあるが感情を持たない白くやわらかい花が人の姿を得たような――とでも言えばいいんだろうか。
そういうものが、微笑んでいるのか悲しんでいるのかの判別も難しい謎めいた眼差しをたたえて、春の庭を見詰めている。
その様子は幻想的で、神秘的にさえ見えるのに、俺は――浅ましい形而下の世界に生きている俺は、あろうことか自分の下半身に変化が生じていることを認めることになった。

正直、俺は、そんな自分に激しい幻滅を覚えた。
あんな綺麗なものを見て、俺が感じるものはそれなのか、と。
だが、言い訳をするつもりはないが、俺のその変化には性的なものは含まれていなかったと思う。
勝負事で思いがけない勝利の予感を覚えた時、決して成し遂げられないと思っていた仕事が成功しかけている時、頭は冷静なのに――冷静でいるつもりなのに――身体だけが勝手に興奮することがあるだろう。
それは、あの感覚に似ていた。

要するに俺は、これほど美しく成長した瞬が、もうすぐ俺の胸の中に飛び込んできてくれるのだという期待を抑えきれず、だが無理に抑えようとして、そんなことになってしまったんだ。
だが俺は、そんな期待に胸を躍らせている場合じゃなかった。
俺の期待は実現しなかった。

瞬を乗せてきた車の運転席から、黒いサングラスをした背の高い男が一人現われて、その男がボンネットを迂回して瞬の横に立つ。
瞬は、その男に、奴の乱暴な運転を諌めるか何かしたらしい。
男はそんな瞬の様子に わざとらしい仕草で肩をすくめ、何を思ったのか突然 瞬の肩を抱きしめて、そして、瞬の頬にキスをした――。

自分の目の前で何が起きたのか、俺はすぐには理解できなかった。
次の瞬間には、瞬がその男の腕を払いのけることを期待した。
しかし、瞬は、俺のその期待にも応えてはくれなかった。
男の腕が解かれるのを待ち、そいつの腕から解放されると、瞬は今度は自分の方から、男の右腕に自分の両腕を絡みつかせていった。
白い花がほころぶような笑顔を浮かべて。

まるで、昔の俺の居場所に、その見知らぬ男が立っているようだった。
いや、瞬は、昔の俺にも、人目のあるところでそんなことをしたりはしなかった。
瞬は、一輝にだってここまで親しげに振舞ったことはない。

何だ、これは。
意味がわからない――何がどうなっているのかがわからない。
俺は、俺の瞬がいるところに帰ってきたつもりで、別の世界に来てしまったのか?
頭がぐらぐらする。
ここは本当に、3年前まで俺が暮らしていた家、その家のある世界なのか?
もしそうだというのなら――もしそうなのだとしたら――。
俺はなぜその可能性を考えなかったんだろう?






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