結局、俺は一人でシベリアに戻るしかなかった。
季節は冬に逆戻りした。
白い大地――俺の心のように何もない白い大地。
俺には、ここが似合いなんだろう。

救いようがないほど馬鹿な男は、一生孤独なまま、失ったものを悔やみ、過去の幸福だった時を懐かしんで 死んだように生きていくしかない。
その幸福すら自分で掴んだものではなく、与えられたものだったというのに、俺はそんなことにさえ気付かない大馬鹿者だった。
どうせ馬鹿なら、すべてのことに鈍くなればいいのに、なぜ俺は自業自得の苦しさや悲しさには こんなに敏感なんだ。

――苦しい。
瞬が俺のものなのではなく 俺が瞬のものだったのだと、今頃になって気付く自分自身を、この世から消し去ってしまいたい。
瞬と離れているのが苦しい。
たった今この瞬間にも、瞬があの男たちに組み敷かれ喘いでいるのかと思うと、奴等を殺してやりたくなる。
そして、奴等の血を浴びて呆然としている瞬を犯してやりたい。

ああ、駄目だ。
俺は嫉妬のせいで狂いかけている。
おかしくなりかけている。
俺はこんなに弱い男だったのか?
だいいち、おかしな話じゃないか。
この3年間、俺は瞬なしでやってこれたのに。

瞬なしで――いや、違う。
俺がこの3年間を一人で生きてこれたのは、瞬は俺を待っていてくれると、俺は瞬に愛され求められていると うぬぼれていられたからだ。
俺は、瞬にも心があることを忘れていた。
それが変わるものだということを考えもしなかった――。

今更考えても仕方のないことを考え続け、丸1日以上シベリアの雪原をあてもなく歩きまわってから、俺は最後に ひどく情けない格好で家に帰った。
誰がこんな何もないところに こんな家を建てたのかと、俺は時々妙に思っていたんだが、今ならその人間の心が俺にはわかる。
この家は、自分のものといえるものは後悔しか持っていない男が、自分の愚かさを他人の目にさらさないために建てた家なんだ。
ならば、ここは俺には似合いの住処すみかだ。
俺のために建てられたついの住処。
俺は、その家の扉を、肩から倒れ込むようにして押し開けた。

「氷河……! おかえりなさい!」
俺はいよいよ気が違ってきたらしい。
そこには瞬がいた。
まるで昨日 俺がこの家を出たのを見送ったばかりのような目をした瞬が。

狂気の世界の瞬――は、だが、正気の目をしていた。
自分の意思と心を持つ人間の目をしていた。
これは現実の世界での出来事だということに気付き、俺は声を失った。
なぜだ?
なぜ瞬がここにいる?
瞬が俺の前に立ち――手を伸ばせば触れられるほどのところに立ち、俺の顔を覗き込んでくる。
俺はひどい顔を――情けない顔をしていたと思う。

「氷河がいつまでも僕のところに帰ってきてくれないから、僕の方から来たの」
微笑みながらそう告げる瞬は、間近で見ると、遠目に見た時よりずっと美しく蠱惑的で、生身の人間と思うのが難しいほどだった。
だが、生きているのでなかったら、瞬はこれほど魅力的な生き物ではいられないだろう。
俺がこれほど瞬に引きつけられることもなかっただろう。
俺には、ピュグマリオンコンプレックスの気はない。

何がどうなっているのか――。
まさか“普通の男”二人でも足りなくて、俺を連れ戻しに来たわけでもあるまい。
そんな自虐的なことを考えた俺は、次の瞬間 全身を強張らせた。
瞬は一人ではなかった。
あの男たちが俺の・・椅子を断りもなく使っている。
この家に椅子は一脚しかなく、もう一人の男はチェストを椅子代わりにしていた。
外ならまだしも家の中でまでサングラスをかけたままで――もしかしたらそれは、瞬の昔の男への軽蔑を隠すためか?

「何しに来たんだ」
こんなところにまで忠僕を連れてくる瞬に苛立ち、俺は突き放すような声で瞬を問い質した。
瞬は、俺が旧友を笑顔で迎え入れるとでも思っていたんだろうか。
いかにも迷惑そうな俺の態度に驚いたように、瞬はその瞳を見開いた。
まもなく、そして突然、そこに3年前の気弱げで大人しく控えめな瞬が出現する(それでも瞬は美しい)。

気後れしたように微かに眉根を寄せ、瞬は言葉をためらった。
しばしの沈黙のあと、思い切ったように、だが何かを恐れているような目をして、瞬は再び口を開いた(瞬の唇は、春に咲く薄桃色の花の花びらのようだ)。
「ごめんなさい。僕……氷河も僕に――僕たちに会いたがってくれているだろうって、勝手に決めつけて――」

それで、おまえはそんな男共を引き連れてこんなところまでやってきたというのか?
そうして俺に会って、自分の今の男を紹介しようとでも?
「おまえがなぜそんな考えを思いついたのか、俺には理解できない」
瞬が泣きそうな表情になる。
頼むから泣かないでくれ、
おまえに泣かれたら、俺はどうすればいいのか わからない。
わからないんだ、本当に……!

無表情を装うのにも限界がある――と俺が悲鳴をあげそうになった時、俺を窮地から救ってくれたのは、あろうことか瞬の今の男――の片割れだった。
瞬にキスをしていた男の方だ。
そいつが、椅子代わりにしていたチェストから立ち上がり、つかつかと俺の方に歩み寄ってきて、そして俺の手を掴み上げた。
ああ、こいつらは沙織さんのボディガードじゃなく、瞬のボディガードか。
結構なご身分だ。
瞬のボディガード。
さぞかし働き甲斐のある仕事だろう。
報酬も特別で。

腹立ちを抑えきれず、俺はそいつの手を振りほどこうとした。
振りほどこうとして――そうすることができなかった。
この男はいったい何者だ?
俺は聖闘士――もう3年も戦いらしい戦いはしていなかったが、たとえ訓練され鍛えられているにしても“普通の”男など指1本で倒すことのできる聖闘士だぞ。
俺にこんな真似ができるのは俺と同じ聖闘士くらいのものだ――と俺が思った時。
「相変わらず素直じゃないな。瞬に会えて嬉しいくせに」
悔恨のために建てられたログハウスの中に、どこかで聞いたことのある声が響いた。
その声の主が誰なのかを思い出し、俺は目を剥くことになった。

俺は、この3年間で身長が15センチは伸びていた。
その俺と大して変わらないということは、こいつはいったい何センチ伸びたんだ。
芽を出したばかりの真竹じゃあるまいに。
「星矢……」

「感動の再会を邪魔しては悪いと思って黒子に徹していたのに、人の気遣いがわからない奴だな」
そう言ってサングラスを外したもう一人の男は、鬱陶しい長髪がトレードマーク(だったはず)の龍座の聖闘士だった。
俺は多分、その時 正真正銘の阿呆面をさらしていた。
「……髪がないぞ」
「禿げたように言うな。地球環境保護とシャンプー代節約のために切ったんだ」

瞬の今の男。
それは星矢と紫龍だった。






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