グラード財団総帥兼女神アテナの高潔と非情は既知のことだった。 だから氷河は、彼女の冷酷な賞讃と経営方針演説には耐えることができた。 しかし、これが瞬とのやりとりとなると、話はまた違ってくる。 「氷河、すごいね! 一緒にお散歩行けなくなったのは残念だけど、もうしばらくの辛抱だって、沙織さんも言ってたし――氷河、ほんとにすごい!」 こういう状態を『モテている』と表していいのかどうかはさておくとして、焼きもちを焼いた様子の全くない瞬から、ありえないほど素直な眼差しと共に贈られた賞讃の言葉に、氷河はどっと落ち込んだ。 瞬に妬かれたり拗ねられたりしたら、それはそれで対応に困ることにはなっていただろうが、こんなにも明るく手放しの賞讃を浴びせかけられても、氷河としては空しさが増すばかりだったのだ。 瞬に喜んでもらいたくなどなかったのである。氷河は、この事態を。 この事態は決して喜ばしいものではないのだということを、瞬に気付いてもらうために、氷河は珍しく瞬への抵抗を試みることになった。 「こんなやり方は邪道だ。目的が正しければ、手段は邪道でも許されるというものじゃないだろう。人類は、現在の地球の危機的状況を正しく理解し、自分と未来の地球に生きる者たちを守るために必要なことだという確かな危機意識と問題意識を持って、地球温暖化対策のために不断の努力を続けなければならないんだ。こんな騒ぎは一過性の熱で終わるに決まっている。それでは何の意味もないだろう!」 そんな真っ当なことしか言えない自分が、氷河は、情けなくてならなかった。 そうではないのだ。 彼はただ、瞬と共に毎日過ごすことのできる あのささやかなお散歩タイムを取り戻したいだけだった。ただそれだけだというのに――。 不正直で馬鹿げた氷河の正論に、瞬は真顔で意見してきた。 「でも、これで、地球環境への問題意識を持つようになる人は増えるでしょう? いくら偉い科学者や官公庁が地球の危機的状況を訴えたって、人には惰性っていうものがあって、楽な方に流れるようにできているから、その意識を変えるきっかけが必要なんだよ。氷河はそのきっかけになれたんだ」 瞬はそれを本気で“すごいこと”“良いこと”だと思っているのだろうか。 瞬との散歩ができなくなったことは別問題としても、氷河には諸手をあげて瞬の意見に賛同することはできなかった。 「自発的にじゃなく、他者からの働きかけが必要だなんて、本気で切羽詰まってないから、人間共はそんなふうにノンキに構えていられるんだ。それこそが人間共の危機意識の欠如を物語っている」 「それはそうかもしれないけど……。思い切れない人もいるんだよ。ほら、それはむしろ我慢強さなんじゃないかって思えるほど怠け者の人っているでしょう。新しいことに挑戦して失敗したり、労力を無駄にしたりするより、少々不便でも不都合があっても、今のままでいたいって考える人たち。そういう人たちが立ち上がって行動を起こすためには、やっぱり何らかのきっかけが必要なんだと思う」 「……」 瞬のその言葉は、また別の意味で氷河を刺激したのである。 我慢強いと思えるほどの怠け者。 新しいことに挑戦して失敗したり、労力を無駄にしたりするより、少々不便不都合を覚えていても現状維持を考える人間。 それは、決定的な絶望や修復不可能なほどの破綻を恐れ、瞬との散歩にささやかな癒しを求めている小心な男のことなのではないか。 氷河は、自分が瞬に責められているような気がしてならなかったのである。 そんなことがあるはずがないというのに。 瞬がそんなことを言うはずがないことは わかっていたのに。 「我慢できるということは切羽詰まっていないということだと、おまえは思うのか……? それを心底から希求していない、必要だと感じていないことだと?」 「かもしれない。でも、そんなふうでいると、本当に限界が来た時に手遅れになっちゃってるってことがあるでしょう。もうこの環境では生物は生きていけないって思うくらい地球の自然が破壊されてから、じゃあ現状を改善しようと思っても、きっともうその時にはすべてが遅すぎるよね。だから――それこそ、『今すぐ始めなければ、手遅れになることがある。恋と地球温暖化対策』だよ」 「……」 あの訳のわからないキャッチコピーを持ち出し、だから人類には“氷河”というきっかけが必要だったのだと、瞬は氷河を諭し続ける。 氷河は、瞬は煮え切らない男を責めると同時に挑発しているのかと思った――思わないわけにはいかなかった。 だが、氷河が瞬と自分との間に“散歩友だち”の関係を維持していたのは――そんな関係に甘んじ続けていたのは――彼がひたすら瞬の意思の尊重を第一に考えていたからこそだったのだ。 氷河はそのつもりでいた。 だというのに、瞬はそんなふうに慎重過ぎる“散歩友だち”に、実は不満を抱いていたのだろうか。 限界が来るまで我慢し続けていると、修復不可能な破滅に見舞われることもある――と、瞬は言っている。 そう言っているように、氷河には聞こえた。 では、それはいったいどんな破滅なのだろう? 限界を超えた金髪男が狼になってしまうことによって引き起こされる破滅か、あるいは、我慢を続けていた流し目男が狼にもなれずにいるうちに、獲物を他の誰かに奪われてしまう破滅か。 そのどちらもが、氷河には受け入れ難く耐え難いものだった。 氷河は、怠けて現状維持に努めていたわけではないのだ。 それが瞬のためと思えばこその、長い雌伏の時だったのである。 とにかく、氷河は破綻を望んではいなかった。 行動を起こさずにいて手遅れになるという事態も、もちろん受容し難い。 本気で危機意識を持つべきは地球人類ではなく自分自身だったのだということに、氷河は、事ここに至って ようやく気付いたのである。 が、気付きさえすれば、彼は行動は誰よりも早かった。 あまり瞬を驚かせないように、さりげなく瞬の気を引くところから、彼は始めることにした。 そういうわけで、彼はさりげなく瞬に尋ねてみたのである。 「瞬。おまえ、どんなタイプが好きだ?」 「え?」 突然、全く脈絡のないことを問われた瞬が妙な顔をする。 「どうしてそんなこと訊くの」 「どうして――と言われても……」 まさか、『話を 想定外の反問に、氷河は大いに慌てた。 慌て戸惑い返答に窮した彼は、そうして、つい言ってはならぬことを言ってしまったのである。 「いや、世界中の女が俺の言いなりになるらしいから、おまえのタイプの女がいたら、その女に おまえと付き合えとでも言ってやろうかと思ってな」 もちろん、氷河は冗談のつもりでそう言った――当然、それは冗談だった。 冷静になって考えてみれば、それは、恋の端緒を開くための話題として これほど不適切なものはあるまいと思えるほど不適切を極めた話題だったのだが、つい口を衝いて出てしまう言葉というものが、この世の中には確かに存在する。 時にそれは沈黙を避けるために発せられ、時にそれは間の悪さを取り繕うために発せられる。 そして、人は後悔するのだ。 こんなことなら黙っていて、沈黙の気まずさに耐えるか、当意即妙のやりとりのできない愚鈍と思われていた方が はるかにましだったのに――と。 瞬は、一度きつく唇を引き結んだ。 そうしてから、小さく投げやりに、そして呟くように、瞬は言った。 「……氷河みたいなタイプなんでしょう、多分」 そう告げる瞬の眉が、今にも泣きそうな子供のそれのように歪んでいる。 「なに?」 瞬の発言の意味――というよりも、その発言と表情の関連性が咄嗟に理解できず、氷河は反射的に問い返していた。 が、瞬は、彼の真意を氷河に告げることなく、そのまま逃げるように急いだ足取りでラウンジを出ていってしまったのである。 |