星矢や紫龍や瞬は、グラード財団とは何の関わりもない人間なのだそうだ。 城戸沙織の血縁なのかとも思ったのだが、そういうわけでもないらしく、だが、この常識はずれな邸宅を我が家のようにして暮らしているらしい。 俺の仕事や学業のことを気にかけてたくせに、奴等は仕事や学業に従事している様子もなかった。 星矢はいつも心配そうな目をして瞬を見ていた。 それが奴の唯一の仕事だとでもいうように。 星矢ほどあからさまではなかったが、瞬の身を案じているのは紫龍の方も同様。 瞬は瞬で、自分が奴等に気遣われていることに気を遣って、いつも無理な微笑を浮かべている。 血縁でもないくせに――奴等がなぜ赤の他人のことをそんなに気にかけるのか、正直 俺には理解できなかった。 「氷河ってどんな奴だったんだ? なんで死んだわけ?」 互いに互いを気遣っている お優しい人間たちに――無神経と思われるなら、それはそれで構わなかった。 俺は知りたかったんだ。 氷河って奴がどんな奴で、どんなふうに瞬の心を自分のものにしたのか。 「戦いで」 瞬が短く答えてくる。 戦い。何だ、それは。 俺はその不親切な答えの説明を求めたんだが、瞬は曖昧な笑みで答えをはぐらかした。 「そんなことより、見て、これ」 『戦い』の説明の代わりに瞬が俺に差し出してきたのは、1冊の本だった。 文庫サイズのハードカバー。 表紙の中央に、小さく図案化された百合の花が描かれている。 「氷河が留守の間、借りてたの。返すね」 返すね――と言われても、俺は氷河じゃない。 瞬もそれはわかっているはずなのに。 瞬の意図を解しかねて、その意図を探るために、俺は瞬に手渡された本のページを繰った。 最初は誰かの詩集なのかと思ったんだが、そうではなく――それは金言集のようなものだったらしい。 あるページに栞が挟んであったんで、俺はそのページに書かれている詩句を読んでみた。 あなたに与えられた恵みに感謝しなさい あなたのかけがえのなさを主張しなさい 自分の枠を超えなさい 憎むことより、愛することを選びなさい 泣くことより、笑うことを選びなさい 破壊することより、創造することを選びなさい 諦めることより、耐えることを選びなさい 貶すことより、褒めることを選びなさい 傷付けることより、癒すことを選びなさい 盗むことより、与えることを選びなさい ためらうことより、行動することを選びなさい 堕落することより、成長することを選びなさい 呪うことより、祈ることを選びなさい 死ぬことより、生きることを選びなさい あなたはわたしの最大の奇跡 この世でいちばんの奇跡 瞬の意図を探ろうとしていたのは俺の方だったのに、その詩句を読んでいる俺の横顔を食い入るように見詰めているのは瞬の方だった。 こんなものを俺に読ませて、いったい瞬はどうしようというんだ。 「君の氷河って、こういう説教くさいのが好きだったわけ?」 馬鹿にするような口調になったのは仕方がないだろう。 聖書にだって、ここまで直截的に人間に無理難題を押しつける文言はない。 俺はその本をテーブルの上に放り投げた。 瞬が、俺が投げ捨てたものを大切そうに拾い上げ、その胸に抱きしめる。 「最初に読んだ時は、すごく嫌な文章だと思ったんだって。でも、あの――」 瞬が、僅かに頬を上気させて瞼を伏せる。 「僕に会ってから好きになったって言ってた。僕に会ってから、やっとこの言葉の意味がわかったって」 なるほど。 説教としては空々しすぎて不出来だが、恋人に贈る言葉としてなら、これは確かに出来のいいラブレターだ。 氷河って奴は、余程の気障か恥知らずだったんだろう。 他人の作った文言で、瞬の心を自分に向けようと企む男――。 「神父の説教並みに綺麗事の羅列だな。氷河ってのは敬虔なクリスチャンだったのか? そんなはずないよな。同性の瞬チャンと恋仲だったんだから」 俺は、氷河という男への反感を隠すことができなかった。 やり方が せこすぎるじゃないか。 ――死ぬことより、生きることを選びなさい―― だから瞬は、氷河が死んでしまっても懸命に生きてきたのか? これを恋人の遺言だと思って? 不愉快な話だ。 そして、不愉快な男だ。 そんな言葉で、死んだあとも生きている人間の心を縛ろうとするなんて。 むかっ腹を立てた俺に、瞬が不思議な眼差しを向けてくる。 不思議な――優しい哀れみをたたえたような瞳――。 「出会いは タイミングが大事なんだって、氷河は言ってた。氷河は、子供の頃に この文章を読む機会があって、その時には今のあなたと同じように、これを空虚な綺麗事の羅列だと思ったんだって。一読しただけで不愉快でたまらなくなって、腹が立って、本当にどうしようもなかったんだって。この世界には そんな綺麗事を実践している人間なんて一人もいないのに、言葉だけが美しいせいで、世界を実際より醜悪に感じた……って。――どんなに美しい言葉も、それを美しいと思える時に出合わなければ心に響くことはない。氷河はそう言ってた。僕は、今のあなたが、この詩を読んでどう思うのかを知りたかった」 『今のあなたは不幸なんでしょう』と、瞬の瞳が言っていた。 美しい言葉を美しいと感じられない人間は不幸なのだと。 俺を見る瞬の目は、ひどく悲しそうだった。 だが、だったらどうだというんだ。 俺が不幸でいたら、誰かが困るのか? 俺は誰にも迷惑をかけない気楽な一人暮らしを謳歌していて、俺が死んでも誰も困らない。 それが孤独で不幸なことだったとして、それがどうだというんだ。 だから、死んだ男のように、綺麗事を美しいと感じられるような おめでたくて幸せな人間になれと? だが、人は幸せになろうとしてなれるものか? なれたとしたら、そいつは自分で自分を騙しているにすぎない。 瞬は――自分が死んだ男の意識を変えたように、その力で この俺まで変えようとしているのだろうか? と、俺は思った。 俺を、“氷河”に似せようとしているのか――と。 もし瞬が本気でそんなことができると考えているのなら、それは とんでもない思いあがりだ。 俺は、瞬に怒りを覚えた。 瞬が 健気に不幸に耐えている綺麗なだけの花じゃないことに、初めて――やっと――気付いて。 |
■ 『 The Greatest Miracle In The World 』 by Og Mandino
|