そして、その日。
1ヶ月という契約の時間が終わる日。
城戸沙織は、俺を彼女の執務室に呼びつけて、今どき新鮮な――というか、俺は初めて本物を見た――500万の金額が記された小切手を俺に手渡してきた。
俺は金融機関に自分の口座ってものを持っていなかったから、それしか金を渡す手段がなかったんだろう。
1年間は余裕で遊んで暮らせる金――を手にしても、俺はちっとも嬉しくなかった。

俺がこの日、そういう気持ちになることを、城戸沙織は始めから知っていたのかもしれない。
500万の金を手にしたというのに浮かぬ顔をしている俺を見て、城戸沙織は俺に思いがけない提案をしてきた。
「あなたの一生を私に――いいえ、瞬に売るつもりはなくて? あなたのために、瞬は生きようとし始めている」

城戸沙織の言葉に、俺はもちろん驚いた。
金持ちという人種は、本当に人間を金で買えると思っているんだろうか。
人は、金を持つとそこまで傲慢になれるものか?
城戸沙織の言葉に尋常ではない反感を抱きながら、だが俺は、心の底では金持ちの力に屈してしまいたいと思っていた。そうなればいいと願っていた。

瞬とこのまま――これきり――別れてしまいたくない。
瞬にとって俺は運命の相手でなくても、俺にとって瞬は運命の相手だ。
俺は――俺の心は――身体もだが――この1ヶ月で完全に瞬に魅入られ支配されてしまっていた。

俺の心を見透かしているように、まっすぐに俺を見詰める瞬の瞳。
優しい手。
謎めいて素直で温かい あの微笑、唇。
ああ、そして、俺を受けとめ、受け入れ、包み込む あの貪欲な熱と肉の感触。
必死に俺の背にしがみついてくる、瞬の細い腕――。

考えるだけで、俺の身体は熱くなる。
離したくない。
俺だけのものにしておきたい。
他の誰にも――それがたとえ本物の氷河にであっても――俺は瞬を渡したくなかった。

「氷河になってちょうだい。瞬を生かしておくために」
城戸沙織の提案は、俺にとっては願ってもない、神の恩寵にも思えるほどありがたいものだった。
だというのに――。
「俺は、瞬の氷河じゃない」
俺は、俺の慈悲深い女神にそう答えるしかなかった――そう答えることしかできなかった。

「あなたは記憶を失ってしまったことにすればいいわ。記憶を失った氷河だということにすればいいのよ。だから、瞬のことを憶えていない。以前のようには戦えない。でも、本物の氷河だったということにして、ずっと瞬の側に――」
「一生 氷河の振りをして生きていけというのか」

瞬の恋人として生きていける。
それはなんて魅惑的な誘惑だったろう。
城戸沙織の企みを聞かされた俺は目眩いがした。
本当にぐらぐらと頭が揺れる感覚を味わった。
自分が現実の世界にいるような気がしなかった。

そこに、城戸沙織が――ふいに現実を持ち込んでくる。
「お金なら、いくらでも出します。今のままでは、遠からず あなたの生活は破綻するわよ。定職にも就かず、家も持たず……。あなたが今 住んでいるマンションは、あなたが自分の名義で借りたものではないでしょう」
「……」

その通りだった。
あのマンションは、俺の知らない男の名義で借りてある。
4年前、この国で違法就労していたロシア人が故国に帰るというんで、俺はあのマンションの部屋を持ち主には許可を得ずに譲り受けた。
そのロシア人も、別の男から譲られただけで、自分で賃貸契約を結んだわけではなかったらしい。
マンションの管理人はそのことを知っているらしかったが、賃貸料さえ滞らなければ、望んで厄介事を起こす気はないと考えているようで、ずっと大目に見てくれている。
だが、その気になれば、マンションの持ち主も管理人もすぐに俺をあの部屋から追い出すことができるんだ。
城戸沙織は、そんなことまで調べたのか――。

幻想の夢の国から現実の世界に引き戻されて、俺は、この人間たちの世界での自分の立場を思い出し――思い知らされた。
俺は、その日一日を無事に生き延びることにだけ努力する、ちゃらんぽらんで軽薄な根無し草だ。
俺は、瞬に与えられるものを何ひとつ持っていない、無一物なんだ――。

俺は城戸沙織の提案を退けるしかなかった。
俺は、本当に瞬を好きになってしまっていた。
そして、俺は、瞬の側にいても瞬に何をしてやることもできず、何を与えてやることもできない、屑のような男。
そんな綺麗な夢を見て、いったいどうなるっていうんだ。

「瞬は可愛い。健気だと思う。だがそれは無理だ。俺は、瞬の氷河じゃない」
「あなたが瞬の氷河かどうかということを決めるのは、瞬よ」
「俺だって、俺が瞬の氷河だったらどんなにいいかと思う。だが、現実にはそうじゃない。そうじゃないことに傷付くのは、俺ではなくて瞬の方だろう!」

なぜ城戸沙織は、俺を苦しめ、傷付け、追い詰めようとするんだ。
自分が瞬に与えられる何かを持っているのなら、俺が僅かでも自分に自信を持っている男だったなら、俺だってそうしたい。
瞬を俺の腕に抱きしめて、一生離さないと、誰彼構わず宣言してまわりたい。
だが、それは無理なことなんだ――。

俺は、城戸沙織に俺たちの契約が終了したことを告げ、その日のうちに城戸邸を出た。
瞬に会う勇気はなかった。






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