「氷河でしょう? 僕が氷河を見間違えたりすると思うの」
「瞬……」
そうだ。
俺の名は氷河だ。
少なくともこの4年間、偽名を使わざるを得ない時以外、俺は自分を氷河と名乗っていた。
名前を問われて答えられる名を、俺はそれしか持っていなかったから。

4年前、俺は、ベーリング海を漂っていたところを、日本に向かうロシア船籍の船に拾われた。
『まさか生きているとは思わなかった』と、俺を拾いあげてくれた船の船長は言っていた。
氷の海を漂っている俺は、神の恩寵の光に包まれているように見えた――とも。
自分が不思議な空気のようなものに包まれていたことは、俺自身ぼんやりと憶えていた。
だが、それ以外のこと、それ以前のことを、俺は何も憶えていない。

船が横浜について――船長が船の責任者としてとるべき当然の法的措置をとろうとしていることに気付いた俺はその船を逃げ出した。
ロシアに強制送還されるわけにはいかないと、強迫観念にかられるように俺は思っていた。
俺は日本語を話すことができた。
ロシアや他の国ではなく、この国にこそ俺の求めるものがあると確信して、俺は日本という国の底辺に紛れ込んだんだ。

瞬の氷河はシベリアで死んだと言っていた。
すべてが符号する。
城戸沙織の言っていた通り、俺は記憶を失った氷河なのかもしれない。
だが、そんな符号は俺が本物の氷河だということの証にはならない。
俺は、何も憶えていないんだから。
俺は、瞬たちのように戦うこともできないんだから。
俺が瞬の氷河だったなら、どんなにいいか!

「セックスしたら思い出してくれるかと思ったのに……。でも、おかげで僕は確信できたけど。氷河ってば、記憶を失う前の癖が抜けてないんだもの」
「癖? セックスの? どんな癖だ」
下世話な好奇心からではなく、そんなものが本当にあるのならどうしても知りたくて、俺は瞬に尋ねた。
その癖というやつが、俺が氷河であることの証拠になるのなら、どんな些細なことだって俺は知りたかったんだ。

「教えてあげない」
だが瞬は、少し拗ねたように横を向いて、氷河の癖というやつを俺に教えてはくれなかった。
だから俺は――俺と氷河に共通した癖というのは、瞬が俺を引きとめるため、俺を氷河に仕立て上げるために、瞬が今 咄嗟に捏造したものなんじゃないかと落胆することになったんだ。

「思い出せないんじゃ偽者と同じ。別人だ」
「思い出せるよ。きっと、いくらでも方法はある」
「おまえとのセックスでも思いだせなかったのに。あれほどの刺激が他にあるか」
「あるよ」
微笑みながら そう言って、瞬が、俺の両手に白い手を添え、俺の唇に唇を重ねてくる。
俺は目眩いがした。
確かに、これもかなり刺激的な行為だ。

刺激的すぎて――殊勝で遠慮がちな男でいることに それ以上耐えられなくなった俺は、瞬を抱きしめ、自分から瞬の唇に貪りついていった。
比喩や修辞なんかじゃなく、本当に瞬の唇は甘い。
その感触は俺の舌をとろかすように甘く温かく、そして意思的だ。
その唇が、俺の唇に向かって囁きかけてくる――。

「人は誰だって、自分以外の誰かのために生きているの。僕はいつだって氷河のために生きてきた――死なずに生きてきた。僕は、これからもそうするつもりだよ」
瞬が俺のために生きている――。
瞬は、俺にそう言った。
俺もそうできたなら、どんなにいいか。
だが、それは今の俺に可能なことなのか?

「思い出したい。思い出したい。俺はおまえの氷河になりたい。おまえの氷河に戻りたい……!」
俺は、瞬の華奢な身体にすがりつくようにして、瞬を抱きしめた。
いや、実際に俺は、でかい図体をした子供のように、瞬の身体にすがりついていた。

「大丈夫。きっと思い出せるから。大丈夫。必ず僕が思い出させてあげるから」
瞬は、優しく、なだめるように、慰めるように、幾度も俺の背を撫でてくれた。
そうであってくれればいいと心の底から願い、祈りながら――俺は、駄々をこねるのをやめた子供のように、やっと瞬に頷いたんだ。






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