呆然としている この屋敷の主人より先に我にかえったのはシュンの方だった。
「待って!」
客人のあとを追って客間を飛び出たシュンは、ためらいのない足取りで玄関に向かっているヒョウガを廊下の途中で掴まえた。
そして、シュンの声に立ち止まり、この家の娘の方を振り返った公爵に、シュンは率直かつ素朴な疑問をぶつけることをしたのである。

「お金目当てなんじゃなかったの?」
縁談は破談になった。
ここには、身分の違いや作法をうるさく言う者もいない。
シュンは既に、振りにでも言葉を飾る必要を感じていなかった。

単刀直入なシュンの問いかけに、この国屈指の名門貴族の一人が、率直かつ正直な答えを――少々砕けた言葉で――返してくる。
「俺がグラードの家の令嬢を妻に迎えたりしたら、そう思われるのが目に見えている。そんな屈辱には耐えられない。俺は、自分より裕福な家の令嬢を妻に迎えることだけはしないと心に決めている」

「それって……」
つまり、彼は、最初から その気がなかったのだ。
名門貴族としてのプライド――というより、一人の男としてのプライドが、彼にそんな姑息な真似をすることを許さなかったらしい。

“敵”にも自尊心があることを考慮していなかった自分を大いに反省しつつ、同時にシュンは安堵もした。
「よかった……。ありがとう!」
シュンの心からの感謝の言葉に、
「そう素直に喜ばれると複雑だが」
今度はヒョウガの方が僅かな戸惑いを見せる。
彼が本当にフクザツそうな顔をしてそんなことを言うので、シュンはつい声を出して笑ってしまった。
「あなたくらい綺麗で機転の利く人だったら、貴族でも平民でも、女の子なんてよりどりみどりだよ。姉さ……僕には好きな人がいて、絶対に他の人と結婚はできないの。でも、友人として力を貸すことならできるよ。僕、自由になるお金は結構持ってるんだ」

公爵が平民の娘の融資話に食いついてきても、シュンはもう彼を軽蔑するつもりはなかった。
が、彼は、またしてもシュンの予想を裏切った反応を示してきたのである。
「好きな人がいる――とは。君を手に入れるために公爵家再興に励もうと思ったのに、それは残念だ」
無論、それは口先だけの戯れ言、もしくは冗談のはずだった。
二人はついさっき出会ったばかりの赤の他人なのだ。
それはわかっていたのだが、笑いもせずに真顔でそんなことを言うヒョウガに、シュンの胸は大きく撥ね上がってしまったのである。
そして、同性の自分でさえそうなのだから、いつの時も恋との出合いを待っている世のご婦人方の彼に対する思いは いかばかりかと想見した。

「口がうまいって言われるでしょう。特に女の人に」
「賢明で堅実な英国女性は、破産寸前の貴族には好んで近寄ってこないもののようだ。こうして警戒心なく女性に話しかけられたのは――1年ぶりくらいかな。女性は皆、貧乏貴族につけ入られてなるものかと言わんばかりの強張った表情で俺を見る」
「……」
それはヒョウガが金を必要としていることを女性たちが知っているからではなく、彼が美しすぎるので、世の女性たちは気後れし緊張しているだけなのではないかと、シュンは思った――思わないわけにはいかなかった。
彼につけ入られたいと願う女性はいくらでもいるだろう――とも。

「俺に打ち解けて自然な態度で接してくれる女性は母くらいのものだった」
「公爵のお母さん……?」
その女性のことを、彼が慕わしそうに口にすることに、シュンは驚きを禁じ得なかった。

1年前に亡くなったという前公爵夫人。
金は使えばなくなるものだということを知らず、慈善事業に公爵家の財をつぎ込み、家を傾けた世間知らずのお姫様。
ヒョウガを現在の窮状に追い込んだ張本人だというのに、彼が母親を恨んでいる様子はなかった。
この公爵を生んだ人というのなら、彼女はさぞかし美しく、そして同情心に篤い女性だったのだろう。
もちろん彼は、美しく優しい母を深く愛していたに違いない。

シュンは物心つく前に母を亡くし、母の記憶を全く持っていなかった。
ほんの数刻前まで侮りきっていた破産寸前の貴族を、シュンは今は尋常でなく羨ましいと思ったのである。
公爵の現在の窮状は、彼の愛する母親の残した遺産。
彼は、その遺産を甘んじて受け取ろうとしている。
だから、彼の態度には、悲惨も絶望も焦慮の気配すらないのだ。

自身の非礼を詫びる気持ちもあって、シュンはヒョウガを屋敷の玄関まで見送りに出た。
自動車よりは馬車だろうと、馬車の準備をさせ、御者に『くれぐれも丁重に』と命じて高貴な訪問客の帰館を見送る。
ヒョウガは、その綺麗な顔の印象を『美しい』から『優しい』に変えるような微笑を残して、シュンの前から消えていった。

ヒョウガを乗せた馬車が遠ざかっていく様を見詰めながら、シュンは破産寸前の貴族に対する評価を大いに改めたのである。
普通の女性なら誰でも、自分の持てるものすべてを喜んで彼に差し出すに違いない。
エスメラルダとて、約束を交した相手がいなかったら、どう転んでいたかわからない。
容姿は端正で、健康そうでもある。
印象も悪くない。
恥も知っており、善良な母君の影響か、彼自身にも悪意や他人を利用してやろうと考える計算高さはないようだった。

この場合、彼にそんな あざとさのないことが良いことなのか悪いことなのかの判断はさておくとして、シュンは彼に友人として力を貸すのは嫌ではないと思ったのである。
そう思ってから、自分はたった今、ヒョウガにその提案をうやむやにされたばかりなのだという事実に思い至る。
彼は本当に他人の厚意にすがる気はないようだった。

公爵家の抱えている借財は、だが、世間知らずの大貴族の坊ちゃん一人の力でどうにかなるレベルのものではない。
彼の行く末を考えるほどに、シュンは、いても立ってもいられない気分になった。






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