ヒョウガは狡猾な悪人でも、怠惰な放蕩児でも、卑しい女たらしでもない。
シュンがヒョウガの身を案じずにいられなかったのは、自分がそんな人間を騙してしまったことへの負い目もあったかもしれない。
シュンは、ヒョウガと別れるとすぐに、父の資料室にこもって公爵家の財産の内実を調べ始めた。
その結果わかったことは、あまり希望を持てるようなものではなかったが。

現在の公爵家で、抵当がついていない資産は、英国の植民地経営予算半年分の値打ちがあって買い手のつかない城と、彼の母親が結婚の際に持参したポーツマスにある荘園だけ。
他に馬が一頭。
ヒョウガは、この1年間でかなりの土地を売り、調度類を競売に出している。
それで彼は、彼の母親が残した膨大な借金を半分に減らしていた。
それでも、公爵家には、英国の植民地経営予算2ヶ月分に相当する額の借金が残っている。

ヒョウガの母君の恵まれぬ者たちへの同情心は無尽蔵だったに違いない。
公爵家の財産もそうであれば問題はなかったのだが、資産の有限と人の心の無限の差異は、非情な人の世に歴然として存在したのだ。

「英国は、植民地に投資しているお金を国内の社会福祉にまわすべきなんだ。そうしたら公爵もこんな苦労をせずに済んだのに!」
公爵家の現状は、対外的には未曾有の繁栄を謳歌している英国の暗部の穴埋めを強いられているものとしか、シュンには思えなかった。
公爵家の借財は、国が肩代わりするべきものだと、確信を持って思う。
しかし、それが通らぬのが人の世。
シュンはもっと現実的な対策を練るべく、非情な人の世での成功者である父の許に向かったのである。

「公爵は、ポーツマスに大きな荘園を持っているでしょう。ほとんどが葡萄畑になってるみたいだけど、あそこにワイナリーを作ったらどうかと思うんだ。ポーツマスなら鉄道も通ってるし、港町でもある。作ったワインを、国内にでも海の向こうにでも、臨機応変に運ぶ先を変えられるのは強みだと思うんだけど」

シュンの父は、“娘”のしでかした不始末の衝撃から何とか立ち直り、稀代の無作法者をどう叱りつけてやろうかと思案していたところだった。
そこに突然現れて悪びれもせずに公爵家再興計画をぶちあげてきた息子に、彼は叱責の言葉を向ける先を見失うことになってしまったのである。
自分の息子は、父に叱りつけられる前に自身の非に気付き反省したのだと判断し、せっかく考えた叱責の言葉と理屈を、彼は早々に放棄した。
息子は、公爵家の爵位ではなく、公爵家そのものに相当の投資をしても損はないと言っている。
そして、その息子の父親も実は、説教などより、そういう建設的な話し合いの方が好きだったのだ。

「さすがに私の息子だけあって、目のつけどころがいいな。私もそれを狙っていたのだ。インドの香辛料もアフリカの象牙やダイヤモンドも結構だが、遠い植民地から搾取してばかりでは、我が国の前途も暗いというものだ。公爵が持っている あの荘園は金を生む。だから、エスメラルダとの縁談で公爵家と縁続きになって資金援助の名目を得ようとしていたのに、おまえはそれをぶち壊しにしてくれおって」
「え……」

では、父は、貴族の身分欲しさに金をどぶに捨てるつもりで この縁談の膳立てをしたのではなかったのかと、シュンは目をみはることになった。
それでこそ当代一のやり手と思う一方で、得心できない引っかかりも覚える。
「そんな名目なんてなくても、資金援助はできるでしょう」
「相手は王家につながる名門だぞ。世間が納得する名目もなしに そんなことをしてみろ。成りあがりの下賎の者が貴族に擦り寄り、貴族の権利を掠め取ることを企んでいるのだと勘繰られるのが落ちだ」

そうに違いないと自分自身が思っていただけに、シュンは、父のその懸念を笑って無視することはできなかった。
だが、縁談――政略結婚――というやり方は、世間のそんな勘繰りを助長するだけのものなのではないだろうか。
「『儲かると踏んだから』じゃ駄目なの? 説明すれば彼はわかってくれそうだったけど」
「公爵がわかっても、世間が許さない。『儲けられると踏んだ』は最悪の理由だ。成りあがりの平民が公爵家に資金をつぎ込むには、社会的に納得してもらえる理由が必要なんだ」
「そんな まだるっこしい。父さんはもっと合理的精神の持ち主だと思ってたのに」

息子の言を言葉で否定はせずに、だが、シュンの父は軽く首を横に振った。
「儲けすぎるのは反発を生む。妬まれて敵を作る。特に貴族が――プライドの高い貴族たちが快く思わない。平民が貴族以上の富を手に入れても人に妬まれないにはどうしたらいいか、わかるか」
「それは……僕たちが富むことが、自分たちの利益にもなると思わせること、かな」
「その通りだ。我々が得た利益を我々だけで独占せず社会に還元し、無論、従業員にも相応の報いを与える。社会の理解を得、人々を味方につけて初めて、我々は好きなだけ金を儲けることが許されるようになるんだ」
「それはわかりますけど……」

シュンの父にとっては、公爵家の負債の理由も都合のよいものだったのかもしれない。
慈善事業に金を湯水のようにつぎ込んで、積もりに積もった公爵家の借財。
その根本原因は、公爵の母の恵まれない者たちへの同情心。
公爵家の借金解消のために努めることは、社会に貢献することでもあるのだ。
そのために娘まで差し出すという成り上がりの平民を、貴族たちは、卑しく愚かと笑うことはしても、狡猾とは思うまい。
公爵の母の同情心の恩恵を受けた貧民層に属する者たちも、幸運な金持ちのすることを非難したり妬んだりはしないだろう。

「才覚のある者が勝つのは当然という理屈は、我々ブルジョワジーの間だけで許される考え方だ。労働者や貴族――我々とは違う立場の者たちの心情を無視するのは危険なことだ。特に大衆の力を甘く見てはならない。団結すれば、彼等は王家を倒すこともできるんだからな。1789年のフランスの革命を知らないわけじゃないだろう? 社会の混乱は経済活動を停滞させる――いや、壊滅させる」

その後も、海を隔てた かの国では、共和制、帝政、王政、第二帝政を経て共和制と、めまぐるしく政体が変わった。
今も、普仏戦争でプロイセンに敗れ帝位を追われたナポレオン3世が、この英国に亡命してきている。
政治・社会といった面での価値観の不安定は、物の価値や貨幣の価値も大きく変動させる。
そういう社会では、人は、長期的な展望を持つことができなくなるのだ。
そんな世界で、いったい誰が、来年の収穫を期待して麦を蒔き、新しい商品の開発を試みようとするだろう。

「社会の混乱に紛れて財を成した人の言う言葉とも思えないけど」
「混乱は、成り上がるには都合がいい。しかし、我々は既に持てる者の立場にいるんだ。平和は商品や貨幣の価値を安定させる。平和と安定が富を生む。我々はフランスのような大きな激動は避けなければならない」
そのためには、到底合理的とは言い難い馴れ合いや慣習の遵守も必要なのだろう。
シュンも、自国で血みどろの革命や政権交代劇は見たくなかった。

「この国の大衆はフランスの大衆ほど激情的ではない。さしあたって排除しなければならない問題は、ブルジョワジーに対する貴族の反感だな。新興勢力への貴族の妬みは看過しにくい。我々は、爵位を利用しようとしているのでなく 爵位に屈して金を放出する愚か者なのだと軽蔑されている方が、波風が立たないんだ」
「……」

実際に現実社会で辛酸を舐めてきた父の言葉には重みがあった。
人の感情は、合理的精神とは対極の位置にある。
そして、その人の感情が、社会に対して存外に大きな影響力を持っているのだ。
面倒な根回しや 名目・建前の用意を怠るのは、賢いやり方ではない――ということなのだろう。

では、成り上がりの平民が公爵家の窮状を解消するためにヒョウガに力を貸したいと思ったら、その人間――シュン――は、まず その名目を作らなければならない――ということになる。
もちろん、彼とエスメラルダの結婚以外の。






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