シュンがやっとエスメラルダの前に姿を現したのは、彼女の口からヒョウガの名が出た時だった。
「ヒョウガにばらしたって、どうしてっ !? 」
気つけ薬を嗅がされた貴婦人のように、すぐにシュンの部屋のドアは反応を示した。
迅速極まりないシュンの反応を見て、エスメラルダは、いつまでも うじうじしていることにシュンがそろそろんできていたこと、あるいは、シュンはもう一度ヒョウガに会いにいく理由を探しあぐねていただけだったのだということを 確信したのである。

「私からも謝っておいたけど、シュンちゃんが直接お詫びにいった方がいいかもしれないわね」
エスメラルダに水を向けられると、シュンは物も言わずに外出の用意にとりかかり、あまりに素直なシュンのその様子は、エスメラルダに苦笑めいた笑みを運んできたのだった。


英国屈指の(だが、破産しかけた)公爵の住まいは、聞きしに勝る壮麗な城だった。
さほど古い城ではなく――あるいは前世紀あたりに大規模な建て替えをしたのだろう――庭のあちこちに石造りの稜堡がある他は、むしろ近代的なバロック様式で、堅牢だけが売りの他の古い英国の城とは趣を異にしている。

門から正殿までの間に広がる庭は、馬車の窓から見た限りでは あまり手が行き届いておらず、シュンが入ることを許された建物のホールも客間も どこか がらんとした印象があり、その空疎感は、本来その場にあった多くの調度や装飾品が売り払われたのだろうことを、シュンに知らせることになった。
シュンを客間に案内してくれた壮年に入りかけた執事は、いかにも手際がよく、この城の主人に忠誠心を抱いている様子が見てとれたが、彼の他にこの城で立ち働いているべき多くのメイドの姿はどこにも見受けられない。
英国屈指の名門公爵家が破産の危機に瀕しているのは、紛れもない事実のようだった。

「ヒョウガ!」
城の主は、すぐに客間にやってきた。
「よかった、もう会ってもらえないかと……」
シュンは、何よりもまずその事実に救われた思いがした。
ヒョウガの表情は、微笑んでいると言っても差し支えないほど やわらかい。
感情を表に出さない英国貴族の気概を守ろうとしているのなら、当然ここは無表情でいるはずの人のその表情に、シュンは力付けられた。
彼は、昨日の平民の娘――偽者の娘――の振舞いに腹を立ててはいないのだ。

「騙す気はなかったんだ。僕はただ、ヒョウガに資金を援助する名目を――」
「すっかり騙された。この綺麗な顔が男の子のものとは」
シュンの言い訳を、ヒョウガが遮る。
ヒョウガが他人を『綺麗』と感じるなどということはありえないという考えがあったので、シュンは彼の言葉を、話題を別の方向に逸らそうとする彼のいつもの手だと思った。
その手に乗ってなるかと、ときめく胸を抑え、破産寸前の公爵に食い下がる。

「お詫びに、僕、ヒョウガにお金を――」
「どうして君も君の父上も俺に金を施したがるんだ」
「施すなんて……」
そんな意識は、シュンにはなかった。
シュンにとって――資本家・有産階級の位置にある者にとって――他人に自分の金を託すということは、哀れみの感情から生じる行為ではなく、資金を提供する相手の成功の可能性を信じる心によって為される行為だったのだ。

そして、それ以上に。
シュンには身分も特権もない。
ヒョウガを騙したことへの贖罪を為す術を、シュンは金の他に持っていなかったのである。
シュンの唯一の贖罪の術を、だが、ヒョウガは今日も拒絶した。

「ともかく、シュンの家からの資金援助は受けられない」
「ど……どうして !? 」
「俺はこれから君の父上の敵にまわる」
「え?」
「没落貴族の城に、このまま君を閉じ込めてしまおうかと思っているんだ」
「……」
ヒョウガにしてみれば、それは、これ以上はないほどに明白な恋の告白だったのだが、資産家の息子はそうはとらなかった。
ヒョウガの言葉を聞いたシュンが、突然 瞳を輝かせ始める。

「アメリカで流行ってる営利誘拐っていうやつ? 目的は身代金? なら、大金をふっかけてやればいいよ。父さんはヒョウガになら いくらでも喜んで払うから……!」
「いや、そういう意味では――」
「善は急げ。紙とペンを貸して」
「紙とペン?」
一世一代の恋の告白を無視されたことを、嘆く暇もない。
(破産寸前ではあるが)英国屈指の名門貴族の求愛をすげなく拒絶しておきながら、自分が振った相手に向かって、シュンがやたらと張り切った態度を見せることに、ヒョウガは少々混乱していた。

「破産寸前の我が家にも、紙とペンくらいはあるが……、そんなものをどうするんだ」
「万一の時のための予防線を張っておくの。父さんは僕がヒョウガにさらわれたって喜ぶだけだと思うけど、警察が勝手にそれを事件にしてしまうかもしれないでしょ。『公爵に誘拐されてきます』って僕が書いた手紙を出しておけば、警察もこれはタチの悪い冗談なんだって判断するしかなくなる。これを誰かに僕の家に届けさせて――」
書き上げた手紙をヒョウガに手渡してから、シュンは、ふと気付いたようにヒョウガに尋ねた。

「使用人はいるの?」
予定と全く違う事態の進展に戸惑いつつ、ヒョウガは、シュンに問われたことに正直な答えを返した。
「執事が一人と下働きの者が一人。あとはすべて解雇した」
「それでこの大きなお城を維持できてるの」
「掃除や庭の手入れのことなら――常駐の者は置かず、必要な時だけ雇い入れることにした」
「ちゃんと節制に努めてるんだね。貴族にしては立派」
「……」
恋した相手に褒められているらしいが、どういうわけか あまり嬉しくない。
シュンはいったい貴族という人種をどういう生き物と考えているのか、ヒョウガはシュンに問い質してみたい衝動にかられた。

「僕、一度、グラードの家を離れたところで、自分の力を試してみたかったんだ。自分の才覚で、一財産築けるかどうか――」
ヒョウガの戸惑いをよそに、シュンは目一杯張り切っている。
ヒョウガは嘆息を洩らして、彼の恋する人を見やった。
「僕がヒョウガを僕の父よりお金持ちにしてあげるよ!」

「君の父上は欧州でも指折りの資産家だぞ」
暗に そんなことができるわけがないと告げたヒョウガに、
「ライバルとして不足はないよね!」
元気なシュンの声が返ってくる。
「で、ヒョウガは何か対策を考えてたの?」

その無謀な挑戦に、シュンがあまりに楽しそうに挑もうとしているので――あまりに楽しそうに輝いているので――ヒョウガは自分の恋を一時的に中断し、この流れに乗ることにした。
乗らざるを得なかったのである。
シュンの楽しそうな笑顔に、シュンを恋する者が逆らえるわけがない。

「ポーツマスに母の残してくれた荘園がある。最近近くに鉄道が通ったんだ。そこを利用できないかと考えていたんだが……」
「経済観念や商才皆無の貴族様にしちゃ、目のつけどころがいいね。僕も僕の父も同じことを考えていたよ。うん、それで?」
「今は大部分が葡萄園になっているが、あそこを小麦畑にしてはどうかと――」
「だめだめだめ!」
褒めたそばから、すぐに駄目出しがでる。
年下の未成年の少年に、子供をいなす家庭教師のように不合格評価をくだされ、ヒョウガは非常にきまりの悪い思いをすることになった。

「広い畑の作物を全面的に植え替えるのに、どれだけのお金と時間と人手がかかると思ってるの。ヒョウガは破産寸前なんだから、投資は最少に抑えなくちゃ。せっかく葡萄畑があるんだから、今はそれをそのまま利用することを考えた方がいいんだよ。僕たちの資本金は、僕の身代金だけなんだから。それで小さなワイナリーを作ろう。広い荘園の葡萄を全部小麦に植え替えるより、1万倍も安上がりだよ」
「しかし……スコッチ・ウイスキーと紅茶の国では、ワインはあまり歓迎されないのではないか」
「だから、フランスに売るの。革命、ナポレオン戦争、王政、共和制――フランス人は、産業の振興より政治と恋に夢中で、今フランスのワイン作りは低迷しているんだ。今なら付け入る隙がある」
「フランスに売る……? しかし、フランスの政情はいまだに安定しているとし言えないだろう。色々と危険なのでは――」

代替案があるわけでもないのに『しかし』しか言うことができない自分に、ヒョウガは少々苛立ちと、そして情けなさのようなものを覚えていた。
それでも、それは歴として存在する不安要因である。
ヒョウガは指摘しないわけにはいかなかった。
そんなヒョウガに、シュンが軽快な口調で答えてくる。
「フランスでまた何か起こっても、ヒョウガの葡萄園は荒らされないのが強みだよ。僕たちはあの国の人たちに いつでも安定して定期的な商品供給ができる」
「……」

あらゆるマイナス要因をすべてプラスに転じていくシュンの発想。
これでは、与えられた特権を守ることに汲々としているだけの貴族が没落し、才覚のある平民が社会で台頭してくるのは当然のことだと、ヒョウガは思った。
貴族の特権――は長い伝統と慣習の中で、貴族に生まれながらに与えられたものだが、そういう意味では失うものを持たないシュンの武器は、己れの才覚のみ。
変化を拒み旧態依然とした貴族と、積極的に世界を変えるために働きかけていくブルジョワジー。
どちらが真に“生きて”いるのかということは、火を見るより明らかなことだった。

「とにかく今の畑は今のままにしておくのがいいの。せっかく英国では珍しく葡萄栽培に向いた気候の土地なんだから。ワイン作りに関してはフランスから技術者がたくさん亡命してきているから、彼等に渡りをつけてフランス人好みのワインを作るようにすればいい。ウイスキーとは違ってワインはエイジングに時間がかからないから、収穫の年にはもう販路に乗せられるのも強み。平和って、ほんとにほんとに大事だよね!」
「ああ、そうだな」

自分がここまで経済的に逼迫しておらず、かろうじて貴族としての体面を維持できる状態にあったなら、今 自分の前で、瞳を輝かせて明るい未来を語るシュンを、自分は好ましいと感じていられただろうか?
貴族より富み、その行動力と資本の力で貴族を凌駕する経済力を持ち、伝統にのっとった貴族の特権を侵そうとしている平民の少年を、自分は憎まずにいられただろうか――?
そう考えると、ヒョウガは、公爵家の現在の窮状を招いた亡き母の、困窮者たちへの際限のない同情心に感謝しないではいられなかった。

様々な感慨に囚われて いつのまにか無言になっていたヒョウガに、それまで生き生きと公爵家の未来について語っていたシュンの声が途切れる。
ヒョウガの作り出す沈黙に不安を覚えたのか、シュンは、急に小さな声でヒョウガに詫びを入れてきた。
「失敗したら、ごめんなさい」
「失敗しても、楽しい夢が見られそうだ。なに、破産しても、俺には健康な身体があるし――」
それすら持たない人間が、この世には五万といる。
一人の人間として生きていくのに、それだけあれば人は十分に恵まれていると言って差し支えはない。

「フランスから我が国に亡命してきているナポレオン3世に、技術者提供を要請してみよう」
貴族としての特権も、利用できるうちに利用しておいた方がいい。
シュンの合理的思考に刺激され、ヒョウガは少々開き直ることにした。
シュンの心を恋に向けさせるには、まず公爵家の危機的状況を解決しなければならないようだったから。






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