いつもとても楽しそうにしていたのに、氷河はこれまで彼が全く興味のないことに渋々付き合ってくれていたのだろうか――。 そんな思いに囚われながら、たった一人で眺める児童書フェアは、瞬にとってもあまり楽しいものではなかった。 どんな時にも自分の横に氷河がいる状態に慣れてしまっていた瞬は、イベント会場でも、会場に向かう道すがら、帰る道すがら、幾度も横に視線を流し、そこに氷河の姿がないことに気付いては、溜め息を洩らすことになったのである。 「ガキ用古本の見物は楽しかったか?」 帰宅して、ラウンジにいた氷河にそう尋ねられた時には、瞬は既に首を横に向ける所作が癖のようになってしまっていた。 一人では楽しくない。 その事実は嫌というほど思い知ったのだが、だから次からは嫌でも自分に付き合ってくれと氷河に求めることもできない。 瞬としては、 「ごめんね。僕、今まで氷河を無理に付き合わせてたんだね。でも、今度からは嫌なら嫌ってちゃんと言って。その方が僕も気が楽だから」 と言うことしかできなかったのである。 「ああ、今度からな」 氷河が、軽く瞬に頷いてくる。 おそらく これが――嫌なことは嫌だとはっきり言い合える関係こそが――正しい“親密”のあり方なのだろうと、瞬は自分に言い聞かせた。 二人でいることが自然に感じられ 快いと感じられることよりも、おそらく。 これは二人にとっての進歩なのだと思うことで、瞬は消沈していた自身の気持ちを浮上させるべく努めたのである。 「そうだ。今日行ったギャラリーで、来月 犬の写真展があるんだって。それがすごく面白そうなの。雑種限定、血統書なしの犬に限った写真展なんだ」 「へー、面白そうじゃん」 瞬が持ち出した話題に興味を示してくれたのは、氷河ではなく星矢の方だった。 そういえばプロキオンはシェットランド・シープドッグに似た容姿とグレート・ピレニーズ並みの体長を持っていたと思いながら、瞬は、昨日知り合った犬の健気を仲間たちに話して聞かせたのである。 その話は氷河も聞いてはいなかったはずである。 氷河なら、大切な人を失った犬の健気な振舞いをどう感じ、どう評するのか。 瞬は、それを氷河に聞いてみたかったのだ。 瞬のその望み――氷河があの健気な犬をどう評するのかを知りたいという願い――は叶えられた。 瞬には最も思いがけない形で。 瞬が語るプロキオンの話を聞いた氷河は、 「死んだ前の飼い主のことなんて、さっさと忘れてしまえばいいんだ。だいいち、その犬だって、いつかは死ぬ。すべては無駄、無意味になる。死んだものにこだわっているよりは、生きている今を屈託なく楽しんだ方がいいに決まっている」 と、瞬に告げてきたのだ。 最も氷河らしくない考え――氷河の告げた言葉を、瞬はそう感じないわけにはいかなかった。 亡くなった人たちに誰よりもこだわり執着していたのは、他ならぬ氷河自身だったではないか――と。 「そ……それはそうかもしれないけど、人の心は――犬の心だって、そう簡単に割り切れるものじゃないでしょう」 「その兄貴とやらだって、結局、弟の飼っていた犬を弟の身代わりにしているだけだろう? 死んだ者の代わりにされてたんじゃ、犬の方もたまったもんじゃない。迷惑この上ない話だろうな」 「……」 それを白鳥座の聖闘士が言うのかと、その場に居合わせていた星矢と紫龍は思っていた。 氷河が瞬に執着する理由の一つは、まさに“それ”だと、彼等は考えていたのである。 失った者たちが残していった大きな空虚を埋めるために、氷河は瞬を必要としているのだと。 それを悪いことだとは思わない。 死んだ者だけを追い求め続けるよりはずっと健全で建設的な愛情のあり方だと、彼等は思っていた。 だからこそ氷河には、その健気な犬と現在の飼い主を非難する権利はないとも、彼等は思ったのだ。 「氷河の話を聞いてると、人間が生きて誰かを愛することも無意味、命があることも死ぬことも無意味――って言ってるように聞こえるけど」 瞬が、ひどく無理をしているような眼差しで、氷河に言う。 「氷河は、人が生きて死ぬことをどう考えているの。死は無と同じで、死んだ人を思うことは無意味で無駄だとでも思ってるの」 瞬が否定の言葉を期待しているのは明白だった。 明白なのに、 「無意味で無駄だろう」 氷河が、瞬の問いかけに あっさりと首肯する。 星矢と紫龍は、正直、氷河のその言葉に仰天した。 もちろん、瞬も。 「死んだ者を思ったところで、その人間が帰ってくるわけじゃない」 それはその通りである。 死んでしまった者は生き返らない。 それは厳然たる自然の法則、人には変えることのできない自然の摂理である。 それでも――それでも瞬は、死んでしまった者たちの生と死と、亡くなった者たちを思う生者の心までを無意味だと、他でもない氷河その人が断じることに、尋常でなく大きな衝撃を受けてしまったのである。 これは氷河ではない――。 瞬は直感した。 亡くなった人たち、その人たちに向ける思いを無意味と断じる氷河は、絶対に瞬の好きになった氷河とは違う人間だった。 亡くなった人たちに愛されていたことに感謝し、彼等の愛に報いきれなかったことを悔やみ苦しんでいる氷河。 そんな氷河こそを自分は愛していたのだと、瞬は今初めて自覚した。 |