「なぜこんなことになるんだ! 元に戻せっ!」 夢の中で、氷河は正気にかえっていた。 正気にかえり、今夜も現われた悪魔のような犬を怒鳴りつけていた。 こんなに辺りをはばからない大声をあげていたら、自室のベッドで眠っている現実世界の自分も寝言では済まされないほどの大声を響かせているのかもしれないとも思ったが、だからどうだというのだ。 今夜、彼の隣りに瞬はいないのである。 「俺を元に戻せっ! あんな俺は俺じゃない! なぜ俺が瞬に対して あんなに投げやりでいられるんだ! あれは俺じゃない!」 たった一日――否、半日――大切な人を失った つらさを忘れただけのことで、人はここまで変わってしまうものなのだろうか。 これほど投げやりで覇気がなく、諦めがよすぎて執着心がない人間に? なにより、自分が忘れた事柄は、言ってみれば瞬には無関係な者たちの死だったというのに、それが瞬との決裂につながるという事実が、氷河には合点がいかなかった。 「元に戻してくれ……。俺は瞬を失いたくない……」 氷河の怒声が懇願に変わる。 氷河にとって瞬は、この世界に唯一存在する かけがえのないものだった。 今となっては、生きているただ一人の“愛する人”、“愛してくれる人”、“愛に報いたい人”、なにより、“その愛に報いることのできる可能性を有する人”――。 母や師の死で経験した後悔を、この人に対してだけは経験してたまるかと固く決意して愛し続けてきた ただ一人の人だったのだ、瞬は、氷河にとって。 それがこんなにも簡単に失われてしまうなど、氷河には耐えられない事態だった。 「せっかく忘れられたことを思い出してしまったら、あなたはまた つらい思いをすることになるよ? 自分の無力や運命の無慈悲を恨んで、嘆いて――。すべてを忘れて気楽に生きている方が楽だし、幸せでいられるじゃない」 悪魔のような犬は、今日も小学生のように幼い口調で、氷河に残酷なことを告げてくる。 昨日までは その通りだと同意できていたことに、氷河は今日は頷くことができなかった。 亡くなった人たちへの後悔を忘れることができれば、その分 瞬をもっと愛することができるようになる。 そう思えばこそ、氷河は忘却を望んだのだ。 だが、事実はそうではなかった――。 「瞬は……瞬だけは失いたくない! それだけは嫌だ……!」 「でも、つらいのは嫌なんでしょ?」 「瞬を失うこと以上につらいことなどあるかっ」 過去に経験してきた つらいことはすべて、今の自分と未来の自分の幸福を築くためにある。 そう言ったなら、亡くなった者たちは、生き残っている彼等の息子や弟子に憤りを覚えるのだろうか。 自分の母と師に限っては そんなことはないし、そんな可能性を考えることは、それだけで彼等への侮辱になると、氷河は思った。 そして、実際に、それは事実でもあったのだ。 彼等の死があったからこそ、その死を悔やむ心があったからこそ、生きている氷河は今――昨日までは――幸福な人間だった。 その傍らには いつも瞬がいた。 だが、彼等の死を忘れてしまった男の許に幸福はない――。 彼等の死を悔やむ心があったからこそ、幸福になりたいと願う心を持ち続けていられた。 あのつらさに比べたらと思うことができていたから、戦いに挑むことができ、あのつらさを乗り越えてきたのだという自信があったから、氷河はこれまで戦い続けることもできていたのだ。 「忘れたくない……。いや、俺は忘れるべきじゃなかった。俺を――俺を、後悔だらけの無力な男に戻してくれ。それが俺だ。俺は、そういう俺として生きていたい。それでいいんだ。それが俺の幸福だ……」 氷河は、巨大な悪魔に向かって項垂れるように頭を下げた。 「……」 巨大な悪魔はそんな氷河を見やり、ずいぶんと長い間 無言でいたが、氷河がふと気付くと、巨大な悪魔の姿は小さな子供のそれに変わっていた。 小学生ほどの、子犬のような目をした少年――。 その少年が、まるで瞬のように潤んだ瞳で、氷河に語りかけてくる。 「僕、それを確かめたかったの。僕は、プロキオンや兄さんや父さんや母さんを悲しませることしかできなかった。今も僕の家族たちは、僕を忘れてしまえずに苦しんでいる。僕は、プロキオンや兄さんたちに何もしてあげられない。でも、僕は――僕はいつだってプロキオンたちが幸せでいてくれればいいと――」 そう願っていたのだ。 死してなお、死んでしまったからこそ一層。 「……」 悪魔のような犬の正体。 それが何者だったのかを知った氷河は、昨夜 自分が彼に対してどれほど残酷なことを言ってしまったのかを思い知ることになったのである。 『死んだ者たちのことを忘れられれば、俺はもっと幸せになれるはずなんだ』 この不幸で悲しい少年に、氷河はそう言ってしまったのだ。 それは、亡き母、亡き師に言ったも同然の言葉。 氷河は、その言葉を悔やんだ。 またしても自分は同じ過ちを犯してしまったのだ――と。 そんな氷河の後悔を見透かしたように、小さな男の子が言う。 「いいんだよ。同じ過ちを、あなたが生きている人間にだけはしないでいてくれれば。それで僕たちは――僕たちも幸福になれるんだから」 「僕 それは誰の言葉、誰の声だったろう。 それは、氷河の大切な人たちすべての声であり、言葉だったかもしれない。 「あとで、プロキオンの頭を撫でに行ってくれる? そうしたら僕、あなたを元のあなたに戻してあげる」 それは、子供の声、子供の言葉とは思えないほど優しいものだった。 「お願いだよ。僕のプロキオンは、それだけのことで幸せになれるの」 切なく、強く、悲しい願い。 彼の言葉に頷くこと以外、氷河にできることはなかった。 |