一脚しかない椅子を瞬に譲り、氷河は彼の寝台に腰をおろした。
城砦の中央にある塔の部屋には、その日最後の炎のような光があふれているというのに、氷河はその光を全く知覚できないらしい。
熱のない光の中で、氷河は瞬に語り始めた。

「戦場で、俺たちは苦戦を強いられた。何万といる敵――本当は敵ではない敵を、俺たちは傷付けるわけにはいかなかった。どうやって戦えばいいのかわからなくて―― 一刻も早く戦いを終わらせておまえの許に帰りたかった俺は、その膠着状態に苛立って、手っ取り早く邪魔な奴等を戦場から引き離す作戦を立てた。俺には真実の敵を倒すことより、少しでも早く戦いを収束させることの方が大事だったから――」

それが かなり無謀な作戦だったことは、瞬も星矢たちから聞いて知っていた。
ほんの僅かでもタイミングを逸することがあったなら、全滅していたかもしれない囮部隊。
だが、氷河はもちろん生きて帰るために その無謀に挑んだのだということを、瞬は知っていた。
生きて帰ると、彼は瞬に約束していたのだから。

「命を捨てるような策だと言って星矢や紫龍は俺を止めたが、俺はその作戦がうまくいくことを確信していた。あの教皇がやってみろと言ったんだからな。実際、俺の立てた陽動作戦はうまくいった。俺が邪魔なスペイン軍を戦場の外におびき出すと、俺たちの真実の敵は 俺の仲間たちに倒されていった。俺は、これでおまえの許に帰れると小躍りしたい気分で、星矢たちが敵を倒していくのを高台から見物していたんだ。あの時には、俺は、自分が死ぬかもしれないなんて、これっぽっちも考えていなかった」

「なら、なぜ――」
ならばなぜ、こんなことになってしまったのか。
瞬が困惑しきった声で尋ねると、氷河はわざと軽々しい仕草で両の肩をすくめてみせた。
「奴等を操っていた神が、自分の計画が頓挫した怒りを俺に向けた――ということらしい。何か見えない力で奴は俺から自由を奪い――俺は呼吸ができなくなった。」
「氷河……」
「死にたくなかった――俺は死にたくなかった。だからアテナに祈ったんだ。命以外のものなら何でも差し出す。だから俺を生き延びさせてくれと。もう一度瞬に会わせてくれと」
「命以外のもの……」
「祈りはアテナに届き、俺は生き延びた。そして、俺は命の代わりに光を失ったんだ」

氷河は生きようとしていてくれた。
生きて帰ると約束した者の許に戻るために。
そして、実際に生き延びた。
そのために卑怯な真似をしたわけでも、臆病なことをしたわけでもない。
彼は堂々と彼の恋人の待つ場所に帰ってきていいはずだった。
だというのに――。

「ど……どうして帰ってきてくれなかったの。そんなことで、僕が氷河を厭うようになるとでも思ったの」
そうではないことを瞬は知っていたし、瞬がそんな人間ではないことを、氷河も知っていた。
厭うどころか――白鳥座の聖闘士の身に降りかかってきた不運は、むしろ二人の距離を縮めることになるだろうとすら、氷河は思っていた。
地上の平和と安寧を守るため、瞬との約束を守るために光を失った男を、瞬は優しく気遣ってくれるだろう。
それは、氷河にはわかっていた。
わかっていたからこそ、彼は瞬の許に帰ることができなかったのだ。

「俺はおまえを守るために聖闘士であり続けてきた。聖闘士になる前はそうじゃなかったが――俺が聖闘士になろうとしたのは、家族や旧友や――俺が守るべき者たちをすべて失ってしまったからだった。守るべきものがなく、守るべき人がいないのなら、すべてを守るものになろうと考えて聖域に赴き、聖闘士になり、そして、おまえに会った。おまえに会って――俺は俺が守りたい人を見付けた。おまえを守り、おまえの望みを叶えるために戦うのが、俺の戦いと生の目的になった。そんな俺を、聖域の奴等は、聖闘士として間違っていると たしなめたり嘲笑ったりしたが、俺は平気だった――」

「氷河……」
氷河をたしなめた者たちの中の一人だった瞬は、今になって自分の軽率を悔いることになった。
それで氷河が聖闘士・・・として・・・生き戦うことができるというのなら――そんな人間的な聖闘士が聖域に一人くらいいてもいいではないか、と。

「だが、視力を失ってしまったら、それもできなくなる。おまえを守るどころか、俺はおまえや仲間たちの足手まといになるだけで――」
「なら、僕が氷河を守るよ!」
「瞬。俺をこれ以上みじめな男にしないでくれ」
それが嫌だと言っているのだ。
守りたいと思っていた人に守られるばかりの男になりさがることが。

氷河のその考えは、だが瞬には受け入れてもらえなかった。
瞬は、『俺はおまえを守るために戦う』という白鳥座の聖闘士の言葉をたしなめた者たちの中の一人だった――今でも。
「氷河……氷河は僕を嫌いになったの。僕より、そんな意味のないプライドの方を守りたいっていうの」
「……」

意味のないプライド。
瞬にはそうなのかもしれない。
瞬は、最初から――そして、今でも――“すべて”を守りたいと考えて聖闘士になった人間なのだ。
傷付き弱い人間のすべてを、自分の羽根の下で守ることを、瞬は望んでいる。
力のある者が、力のない者たちを守り庇うために 持てる力を用いることは自然なことだと確信している。
瞬は本質的に優しい人間で、あらゆる他者に優しく接することができ、だから、他人の優しさを受け入れることにも躊躇がない。
他の人間もそうだと思い込んでいる。

だが、氷河はそうではなかった。
誰かのために戦いたい。誰かを守っていたい。
そうすることで、自分の愛を証明したい。
それが自分の生の証にもなる。
そう、彼は考えていた。
守られ愛されるだけの人間にはもうなりたくないと、自分は 守り愛する側の人間でありたいと、氷河は何よりもそういう自分自身を望んでいた。
子供の頃の彼は、愛されるだけの存在だったから。
そのために母を失ったから。
もう二度と あの無力感だけは経験したくないと、彼は願っていたのだ。
ここで瞬に寄りかかってしまったら、氷河という男は、聖闘士になったあとも聖闘士になる前の彼と何も変わっていない――何も成長していないことになってしまうではないか。

瞬がそんな氷河の心を知らないはずがない。
それでも瞬は、氷河に、他人に甘えることを求めてきた。
掛けていた椅子から立ち上がり、氷河に触れることのできる場所に移動して、実際に氷河に触れる。
「氷河……氷河、僕は――氷河が生きていてくれれば、それだけで僕も生きていられるんだよ。氷河が僕の側にいることは甘えなんかじゃない」
沈黙をしか返してくれない氷河に焦れたように、瞬は彼の首に両手を絡みつかせ、その唇に唇を重ねていった。

白鳥座の聖闘士に妥協を求めているようで、その実、それは瞬が氷河に温情を与える行為だった。
こんなふうに甘やかされることが、氷河はつらかった。
その相手が、彼が誰よりも守りたいと願う ただ一人の人間とあっては やりきれない。
「僕を、氷河のものにしてくれるんでしょう……?」
瞬は囁く言葉までが甘い。
苦しい呻きを洩らして、氷河は絡みついてくる瞬の手を振りほどいた。

「瞬、そんな手で俺の決意を鈍らせようといるのは卑怯だ。俺は……抗えない……」
「抗えないなら、大人しく言うことを聞いて。僕のために、その無意味なプライドを捨てて」
「瞬……!」
愛されても何も与えてやれない男に、瞬は甘すぎる。
氷河は、瞬のその甘さを非難したつもりだったのだが、瞬は彼の責める響きの声を別の意味に解したらしい。
瞬は不安そうに、氷河にとんでもないことを尋ねてきた。

「あの……もしかして、あのこと・・・・って、目が見えてないとできないものなの?」
「そ……そういうわけではないが……」
「よかった。もしそうならどうしようかと――」
瞬の馬鹿な心配を、氷河が遮る。
「瞬、そういうことを言ってるんじゃないんだ。俺は――」
氷河の反駁を、瞬も遮った。
「僕は我儘を言ってるの? 僕が氷河の側にいたいと思うことは我儘なの?」
もちろんそれは我儘だと、氷河は思った。
可愛い、健気な、そして蠱惑的すぎる瞬の我儘――。

「戦えない男に身を任せても、心を預けても、おまえに益はないと言っているんだ。俺はおまえに何も与えてやれない」
「氷河が戦えなくなるなんて、誰が決めたの……!」
我儘で可愛い聖闘士が、健気に その語気を荒げる。
「僕は氷河から何かをもらおうなんて考えたことはないよ! 僕は氷河に好きだって言ってもらうたび、とても幸せな気持ちになれてた。意地を張って困った振りはしてたけど、ほんとはいつだって嬉しかった。氷河は、僕を、あの頃と――目が見えていた頃と時と同じ気持ちにすることができるでしょう? 僕も同じものを氷河に返すよ」

以前は 愛しいばかりで、可愛いとしか感じたことのなかった瞬の健気が、今の氷河にはつらいばかりだった。
なぜ瞬は、瞬にとって価値のない者になりはててしまった男を苦しめることをやめてくれないのか――と思う。
「それは俺がおまえに甘えることになる。俺は愛されるだけのものになりさがる。俺は、それだけは耐えられない」
「じゃあ、僕は氷河を失うの……氷河はもう僕なんかいらなくなったっていうの……」

瞬の声には涙がにじんでいる。
瞬に泣かれるのはつらい――つらくてならなかった。
見えていたら、白鳥座の聖闘士は即座に瞬の涙に負けてしまっていただろう。
氷河は、自分が光を失っていることに、今だけは感謝した。

「瞬、おまえには意味のないプライドに思えるのかもしれないが、それは俺には大事なものなんだ。おまえの負担になるだけとわかっていて、俺がどうして――」
「僕にだってプライドはあるよ。目が見えなくなった途端にいらなくなっただなんて、僕は氷河にとって その程度のものだったの!」
「そうじゃないっ!」

そうではないのだ。
氷河は瞬が欲しかった。
心も身体も、見えていた時よりもずっと、氷河は瞬が欲しかった。
光を失ってから、氷河が その脳裏に思い描くのは瞬の姿ばかりだった。
白鳥座の聖闘士には、瞬以外の何も見えなくなってしまったのだ。
瞬を求める心は、以前よりずっと強く大きなものになっていた。

「氷河、氷河は僕の気持ちを知ってるでしょう。僕も氷河の心を知ってる。お願い。僕は氷河を抱きしめて、氷河が生きていることを確かめたいの」
瞬の腕が氷河の背にまわり、その肩が氷河の胸に触れる。
「氷河……」
囁き誘うような瞬の声と、出会った瞬間からずっと 己れの胸に抱くことを夢想してきた瞬の香り。
それが今、自分の腕の中にあるのだ。
氷河は、それ以上 自分を抑えることができなかった。
「瞬……!」
プライドより、瞬への愛情と、そして欲望の方が強かった。






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