「どうだった?」
CDに収録された曲をすべて聴き終えた瞬に、沙織が尋ねてくる。
彼女が視聴覚室に来ていたことにさえ気付かずにいた瞬は、一度深く大きく吐息してから、まだ少し震えの残る指と声で、問われたことに答えた。

「すごい……です。これが いいものなのか悪いもののか、正しいのか間違っているのかは わからないんですけど、とにかくすごいってことだけはわかる」
それはまさに素人の聴き方と感想だったのだが、沙織は、瞬の感想を聞くと、さもありなんと言わんばかりに深く頷いた。
「もう賛否両論なのよ。クラシックへの冒涜だとか、これは曲の演奏じゃなく破壊だとか、むしろ二次創作だとか、ピアノ演奏の新しい可能性を示したものだとか、曲をゲームの材料にしているようなものだとか。批判の方が圧倒的に多いわ。でも、とても売れているの」

「そんなに?」
瞬が問い返すと、沙織は、その事態に呆れたような微苦笑を浮かべた。
「おそらく、このCDは、クラシックジャンルでの、ここ30年間での最高売り上げを記録するわ。カラヤンのベートーヴェン交響曲全集以来の大ヒット。企画・発売元のグラード・エンターティンメント社も驚いているわ。初版は5万枚しかプレスしなかったのよ。それがあっというまに200万枚。某民放テレビの曲当てクイズ番組に採用されたこと以外、宣伝らしい宣伝も打っていないのに」
「200万枚……」

現代音楽を収録したCDとは違って著作権料が絡まない分、CDそのものの値段が安いということを考えても、それは驚異的な数字である。
だが、瞬には、その事態が得心できた。
意外とは思わなかった。
「わかるような気がします。とても強くて美しくて――心が揺さぶられるような演奏ばかりだった」
「そう?」
瞬の表情を探るように、沙織が意味ありげな視線を投げてくる。
瞬は素直に頷き、そして、彼女に尋ねた。

「ピアニストは誰なんですか。どういう人?」
「正体は明かしていないの」
「でも、技術的には高度なものを持ってますよね。クラシックは門外漢の僕にもわかるくらい。もしかして有名なピアニストが批判を恐れて、匿名で出したアルバムなんですか?」
「ふふ。そうね。このアルバム批判の最右翼に立っている評論家たちも、演奏家の技術に関しては何も言えないでいるわね。でも、正体は秘密。瞬が気に入ってくれたのならよかったわ。TSも喜ぶでしょう」
「え?」

なぜ自分のような素人に気に入られたことを、この天才的な――あるいは狂気を帯びた?――ピアニストが喜ぶのか。
沙織がどういうつもりでそんなことを言うのかを量りかね、瞬は僅かに首をかしげた。
沙織が、そんな瞬の疑念に頓着した様子もなく、口許に微笑を刻む。

「光速の拳を見切る聖闘士のお眼鏡に適ったんですもの。あ、この場合は、眼鏡と言うより補聴器と言うべきかしら」
「沙織さん」
笑えない沙織の冗談に、瞬は顔をしかめてしまったのである。
瞬の無言の非難を無視して、沙織は言葉を重ねた。
「あるいは、耳ではなく 心に響いたというべき?」

瞬の心を見透かすような口振りでそう言う沙織に、瞬はなぜかひどく慌ててしまったのである。
彼女の言葉と眼差しにどきまぎしながら、沙織の言うことは当たっているのかもしれないと、瞬は思った。
この演奏、この“音”は、実際に 瞬の耳ではなく心に響いてきたのだ。
瞬の心に、ナイフのように鋭く一直線に突き刺さってきた。
この“音”は、もしかしたらとても危険なものなのかもしれない。
そんな根拠のない不安と予感に囚われつつ、瞬はそのアルバムを沙織から貰い受けた。






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