何度も聴いているうちに、瞬の中からは、ピアニストの曲の解釈(破壊というべきか)への驚きは消えていった。
聞き慣れた曲だと思うから、独創的に過ぎる その“音”に人は違和感を覚えるのであって、単なるクラシッ・・・・クの新曲・・・・として聴けば、それは奇矯な曲ではなくなるのである。
驚きが消えるまで、瞬はその演奏を何度も繰り返し聴いた。
驚きが消えてからも、繰り返し聴いた。
それでも、瞬がその演奏に聴き飽きることはなかった。
逆に、聴けば聴くほど、瞬はその“音”にのめりこんでいくことになった。

なぜなのかはわからない。
だが、そのピアノの音を聴いていると、言葉が聞こえてくるような気がする――のだ。
何と言っているのかはわからない。
音に目が眩みそうになるほどの明るさと、深い――とても深い暗さを、その音(言葉)はたたえていた。
愛することのできる喜びと、愛されないことへの不安。
圧倒されるような力強さと、触れることに不安を覚えるほどのもろさ。
そんなふうに ひどく対照的な印象が、その音には潜んでいる。
そして、その音(言葉)は、身体の中心が燃えてくるような感覚を 瞬の心身にもたらし、麻薬のように瞬の心を虜にした。

――聴きたい。
いつも この音を聴いていたい。
この音に、いつも身体を浸していたい。
瞬のその思いが、『このピアニストに会いたい』という願いに変わるのに、さほど長い時間はかからなかった。
とはいえ、その短い時間の間に、瞬はそのアルバムを50回は聴いていたのだが。

ピアニストが誰なのかを知らないと 安心できない。
彼(彼女)が、その演奏を聴く者に何を訴えようとしているのかを言葉で確かめることができないと、まるで宙に投げ出され大地に戻ってくることのできない悪夢の中を漂い続けているような不安を覚える。
心臓を鷲掴みにされ、自分のものとして取り戻せない感覚。
自分が何者であるのかを確信できない もどかしさ。
そういったものに、瞬は支配されていた。


「彼……彼女は コンサートは開かないんですか」
その“音”の魔力に囚われてから数日後、自分の中に生まれた不安に耐えられなくなった瞬は、ほとんど神の救いの手を求める思いで、沙織にすがることになったのである。
あのCDの発売元であるグラード・エンターティンメント社の代表権を持つ役員である沙織なら、正体不明のピアニストに直接会う機会を与えてくれるのではないかと期待して。
が、沙織の答えは あまり芳しいものではなかった。

「あ、は そういうのは駄目なのよ。私もそういう企画を何度か持ちかけてみたんだけど、自分は人に見せるためにピアノを弾いてるんじゃないって我儘言って、一向にその気になってくれないの。でも、彼がコンサートを開くのを嫌がる本当の理由は、容姿に自信がないからなんじゃないかと、私は思ってるわ」
「彼……」
では、このピアニストは男性なのだ。
そうだろうと、瞬は得心した。
女性の体力で、あの演奏は不可能だと思う。

「あの演奏をした人に会いたいんです」
婉曲的な言い方では、沙織は彼の演奏に心を囚われてしまった人間の真意を酌んでくれそうにない。
瞬は、意を決して、自身の望みを沙織に告げてみた。
思い詰めた様子の瞬への沙織の反応は、だが、やはり色よいものではなかったのである。
彼女は軽く笑って、
「コネを使ってアイドル歌手に会おうとするミーハーな女の子みたいなことはしないでちょうだいね」
と、瞬に自制を促してきた。

「あ、そんなつもりじゃ……」
瞬は、そんな浮ついた気持ちで、沙織にそれを求めたのではなかったのである。
どうしても“彼”に会わなければ、気持ちを落ち着かせることができない。
他の何を見ても他の何を聞いても上の空で、まともな生活ができそうにない。
そんな自分をどうにかしたくて、瞬は沙織に頼んだのである。
彼に会わせてくれ――と。

だが、言われてみれば、瞬の希望は沙織が言った通りのものである。
ポップスとクラシックの違いがあるだけで、瞬の望みは、魅力的なクリエイターにじかに会いたいと願う“ファン”の望みそのものだった。
クラシックだから、その望みが高尚なものだということにはならないのだ。






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