- II -






そんなふうにして半月以上、氷河は悠長にその村で アテナの聖闘士にあるまじきのどかな日々を過ごしていたのである。
氷河の悠長さに、やがて瞬の方が懸念を覚えるようになってしまったらしい。
いつも通りに一日の仕事を終えて二人の家に帰ってきた ある日、瞬は不安そうな目をして氷河に尋ねてきた。

「氷河は僕に聖域に来てほしいって言ってたけど、そこで僕に何ができるの? 聖域って、その……戦う人や強い人や――女神様に認められた人だけに入ることが許されている神聖な場所なんでしょう?」
「原則はそういうことになっているが――」
聖域は、瞬に何かを求めているわけではない。
しいて言うなら、アテナとアテナの聖闘士たちは、瞬が何もしないことを求めている――瞬が変わらないことを求めている――のだ。
ハーデスの名を出さずにその事実を瞬に説明することはなかなかに難しいことで、だから氷河は口ごもった。

「そりゃあ僕には少しは薬草の知識があるけど、聖闘士というのはとても強い人たちなんでしょう? そんな人たちが怪我や病気をしたりするとも思えないし」
「聖闘士だって怪我くらいする。俺なんか、傷だらけだぞ」
ハーデスの名を出して その身に迫っている危険を知らせ、瞬を無駄に恐れさせることをしたくなかった氷河は、その話をせずに済むのなら話題は何でもいいという考えで、身に着けていたチュニックの前をはだけ、ちょうど心臓の上にある大きな傷痍を瞬に見せた。
途端に、瞬の眉が悲痛に歪められる。
「ひどい……。いったいどうしてこんな……」

話を逸らす方向を間違えたことに氷河が気付いた時には、すべてが手遅れだった。
瞬の瞳が涙で潤み、その白い指先が 氷河の心臓の上の傷にそっと触れてくる。
そして氷河は、その傷を負った時よりも はるかに熱い痛みに襲われることになったのである。
「これは僕たちを守るために負った傷なの? 戦う力を持たない僕たちを守るために? 聖域の聖闘士はみんなこんななの? 僕たちは何も知らずに、氷河たちに守られてきたの? だとしたら僕は、これまで何も知らずにいた自分が恥ずかしい……」
瞬の瞳、瞬の指――。
それらは、強大な力を持った敵が繰り出すどんな拳よりも鋭く熱く、氷河の心臓に突き刺さってきた。

アテナは聖域の聖闘士たちの戦いを、対外的に宣伝するようなことはしていない。
だから、瞬が聖闘士たちの戦いを知らないことは当然のことであり、それは恥じるようなことでもなければ罪でもない。
むしろ、聖闘士たちの戦いのことなど何も知らず、人々が笑っていてくれることこそが、アテナの聖闘士たちの本望だった。
いずれにしても、聖闘士たちに守ことができるのは、人の世の存続と、人の命、せいぜいが人々の幸福の可能性だけであって、聖闘士たちには人々を幸福にしてやる力は持っていないのだ。

氷河自身、聖闘士として戦うことは彼が自らの意思で選んだことで、自分以外のどんな力の強制も受けてはいなかった。
誰かに褒めてほしいわけでも感謝してほしいわけでもなく、自分にできることをしているだけのことにすぎない。
だが、だからこそ――彼が守ってきたものは、人間が生きている世界という概念、人間の幸福という概念にすぎなかったのだ。
その事実に、氷河は瞬に出会って初めて気付いた。
聖域を出て瞬の許を訪れなかったら、瞬に出会っていなかったら、氷河は死ぬまでその事実に気付かずにいたかもしれない。

氷河は、地上の平和を脅かす敵と戦う時、特定の誰かの姿を思い浮かべたことはなかった。
聖闘士というものは孤独であるべきだという、開き直りに似た思い込みのようなものもあった。
瞬に会って、『この人のために戦っている』と思えることの心地良さを、氷河は初めて知ったのである。
敵と対峙している時、瞬の姿を思い浮かべることができたら、必ず生きて帰ろうと決意することもできるだろう――と思う。
そのためには、瞬に生きていてもらわなければならない。
ハーデスに瞬を奪われてしまうわけにはいかない。
もちろん瞬に汚れてなどほしくもない。

聖域に行き、アテナの結界に守られ、ハーデスが瞬の側に近付くことを阻止できれば、何とかなるのではないだろうか。
今のままで――氷河は、今のままの瞬を守りたかった。






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