――ハーデスが瞬を我が物にしようとしている。
覆いかぶさってくる巨大な漆黒の闇に怯え、瞬は救いを求めている。
氷河は瞬をハーデスから引き離すために、その巨大な闇に向かって拳を放ったのだが、その拳の衝撃を受けとめたのは、その拳を放ったはずの氷河自身だった。
いつのまにかハーデスは氷河自身になっていて、瞬は氷河に抱きすくめられ、身動きもできない状態になっていた。

――もちろん、それは夢で――たちの悪い夢で――悪夢から目覚めた氷河は、激しい自己嫌悪に陥った。
瞬に今のままでいてほしいと、覚醒時の意識は考えているのに、それとは違うところにある心は、全く別のことを望んでいる。
瞬を汚す大義名分があるだけに、氷河は自分の欲があさましく思え、自分自身を蔑まないわけにはいかなかった。

自分より高潔と思える人間に不安を覚え、その人間の“良くないところ”を見付けたり、その人間に悪い心を植えつけて自分と同じ次元にまで引きずりおろすことによって安心する――そんな種類の人間がこの世に存在する事実は、氷河も知らないではなかった。
氷河自身はそういう人間を軽蔑していたが、彼の内にある欲は、そういうものとは違って、もっと直截的で動物的だった。

瞬が相手でなかったら、それはごくありふれた恋の欲望といえるものだったが、氷河が今望んでいるものは、よりにもよって冥王ハーデスに選ばれた、“この現世で最も清らかな人間”である。
同じ部屋で――手を伸ばせば触れられるほど近くで――瞬は、こんなにも身近に危険な獣欲を抱いた男がいることも知らずに、安らかな眠りの時に浸っている。
俺は瞬にとってハーデスより邪悪な存在なのかもしれない――氷河はそう思った――思わないわけにはいかなかった。

この瞬に、この“現世で最も清らかな”人間に、自分はなぜこんな欲望を抱けるのか――。
人間にとって、ごくありふれた、日常的でさえある感情と欲望の営み――恋。
冥府の王との戦いが目前に迫ったこの状況において、それは実に厄介な代物だった。
人間には、正義や地上の安寧を願う意思で その感情を抑えつけることは、あまりにも困難な事業なのだ。


「おまえは なぜ俺をこの家に置こうなんて無用心なことを考えたんだ」
「え?」
「俺が聖域の聖闘士というのも嘘かもしれない。アテナは聖域のことを対外的に殊更宣伝していないから、聖域のことを知る者は聖域の外にはほとんど存在しない。俺はその事実を利用して、ねぐらと食べ物を手に入れようとする卑劣漢かもしれないのに」
たちの悪い夢に悩まされた翌朝、氷河は瞬に尋ねてみたのである。
瞬は、自分のしたことよりも、氷河の言の方がよほど常識的でないと考えている様子で、氷河の疑念をあっさりと微笑で遮った。

「氷河の目はとても綺麗だもの。澄みきった湖のようで……疑う理由はないでしょう」
「俺の目が綺麗なんじゃない。おまえの目が澄んでいるから、おまえには自分の目に映るものがすべて美しく見えるだけだ。俺でなくても――」
「そんなことないと思う。氷河は特別に綺麗だよ。そして、あの……悲しそうにも見える。僕は氷河に何かしてあげられない……のかな?」
『汚れるために俺と寝てくれ』と言うわけにもいかず、氷河は力なく首を横に振った。
瞬が――瞬の方が、はるかに悲しげな目をして、そんな氷河を見詰めてくる。
瞬に見詰められていることに息苦しさを覚えた氷河が、視線を横に逸らすと、瞬は気落ちしたように小さな吐息を洩らした。

「氷河は何かを迷ってる。あの女の人もそんな目をして、僕を見てた。僕の周りで何が起こってるの。僕はいったい何者なの。教えて」
「……」
瞬の周りで何が起こっているのか――それを知ることが、瞬にとってよいことだとは思えない。
そう考えて、氷河は沈黙だけを瞬に返した。
氷河の作りだす沈黙に少々気後れした様を見せた瞬が、それでもアテナの聖闘士に食い下がってくる。

「なんだか、僕がいることが、氷河を困らせているような気がする。人が迷うのは、それが相手のためになることかどうかがわからないからでしょう? 氷河は僕を気遣って――僕のために迷っているんでしょう?」
「おまえを気遣って……?」
それは実に瞬らしい考え方だ――と、氷河は思ったのである。
瞬は清らかで善良で、自身の価値観を他人にも当てはめ、人は皆 互いに思い遣って生きているのだと信じている。
瞬はおそらく、人と人の間に誤解や敵意が生じるのも、互いを思い遣る心がすれ違ってしまった結果でしかないと考えているに違いない。

氷河は、瞬が“清らか”な人間であることの理由がわからなかった。
瞬は捨て子だったと言っていた。
子を庇い守り愛してくれる両親を知らず、これまで決して恵まれた人生を送ってきたはずがないというのに。
氷河は力なく首を横に振り、人の心には他人への思い遣りしか存在しないと信じきっているような瞬を、世界で最も不可解な謎を見る目で見詰めた。

「おまえは、人に冷たくされたり裏切られたりして、誰かを憎んだことはないのか」
「あるよ。小さい頃の僕は、いつもそんな気持ちで生きていたような気がする。誰かを恨んだり憎んだりしないと、自分の境遇に耐えられなかったの」
「おまえが? 本当に?」
あまりに意外な瞬の返答に、氷河が目をみはる。
瞬は浅く頷いた。

「なぜ僕だけが一人ぽっちなのか、どうして世の中はこんなに不公平なのかって、僕はいつも思ってた。でも、それは僕自身が、それこそ一人で拗ねていただけのことだった。なぜ誰も僕を助けてくれないのか、せめて優しい言葉をかけてくれないのかって、僕はいつも人を恨んでて――けど、そんなの当たり前のことだよね。僕自身が誰かを助けようとせず、僕自身が誰も信じていなかったんだから」
「……」
瞬は隠す様子もなく、自然な口振りでそう言って、少し悲しそうに笑った。

「そんなふうだと生きてるのがつらいから、僕はすべての人を信じることにしたの。そうしたら、大抵の人は優しくて、僕の生きている世界は美しいってことがわかってきたんだ」
瞬の言が真実なのであれば――こんな嘘をつくことに利があるはずもないが――瞬の“清らかさ”は“無垢”とは全く別のものからできているものだということになる。
それは生まれながらに与えられたものではなく、瞬が自分の意思で掴み取ったものだということになる。

氷河は、その事実を知らされて、混乱することになったのである。
瞬の清らかさが天賦のものでないというのなら、瞬がハーデスの器に選ばれたことは、運命や宿命と呼ばれるものとは別のことなのだろうか――と。
ハーデスはいったい、瞬が“清らか”な人間になることを、いつ知ったのだ――?
氷河は、訳がわからなくなりかけていた。

「おまえに信じられていることを知っていても、それがわかっていながら、おまえを裏切る奴はいるだろう」
「それは僕が期待しすぎただけ。人を裏切りたくて裏切る人はいないよ」
「人を傷付けることで、自分はその人間より優位にいると確信して、悦に入るような人間もいるとは思わないか」
「そうしないと生きていけない人なんでしょう。その人もその人なりに、きっと精一杯生きようとしているんだよ」
「世の中にいるのは、そんなふうに善良な人間ばかりじゃないだろう」
「氷河の言うように善良でない人ばかりでもないよ。むしろ、そんな人は少ない。どうしてそんなに例外ばかりを見ようとするの。そんなに綺麗な目をしているのに」

瞬の言う通り、そこまで悪意に満ちた人間は例外的存在であることを、氷河は知っていた。
少なくとも聖域にいる彼の仲間たちは皆、“清らか”とまでは言えなくても“いい奴等”ではある。
この村の住人たちも ほぼ善良な者ばかりだろう。
彼等は信頼には信頼を返そうとする。
わかっていたはずのことを、瞬に言葉にされて、氷河はふいに救われたような気持ちになった。
そう言い切ることのできる瞬が好きだと思う。
どうにも変えようがないほどに好きで、この思いはもはや消し去りようがない。

己れの恋を自覚した瞬間に、大抵の・・・人間はどういう気持ちになるものだろうと、氷河は思ったのである。
その恋の前途に多大な困難が待っていることがわかっていても、大抵の人間は、その瞬間だけは、自分が恋することのできる人に出会えた幸運と幸福感に胸をときめかせるものなのではないだろうか。
だが、少なくとも氷河は、今は苦しいばかりだった。

苦悶に歪んだ氷河の眉を見て、瞬は、自分が自分の問いかけへの答えをもらえずにいることに気付いたようだった。
そして、聖域からの使者は、彼が守っている人間たち(の中の一人)を苦しめたくなくて、わざと話を逸らそうとしているのだと、瞬は考えたらしい。

「本当のことを教えて。僕が判断します。氷河が僕のせいで悩んだり迷ったりしなくて済むように」
瞬が、きっぱりとした眼差しを、まっすぐに氷河に向けてくる。
その意思的な眼差しにも関わらず、面差しの印象が野の花のように優しく感じられるのは、瞬の意思が人への思い遣りでできているからなのだろう。

氷河は、ハーデスが、他の誰でもない瞬を選んだ訳が、今初めてわかったような気がした。
ハーデスは、“最も清らか”な人間を選んだのではなく、“最も強い”人間を選んだのだ。
ハーデスの望む“清らかさ”が“無垢”と同義でないのなら、人はその“清らかさ”を自分の意思で育むしかない。
そして、それは“強い”人間にしかできないことだろう。
たった一度信じていた相手の裏切りを経験したからといって、誰も信じることができなくなるような臆病な人間は“清らか”にはなり得ないのだ。






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