アテナの前を辞し、アテナ神殿の外に出ると、瞬は大きく長い息を吐いた。
そして、共にアテナの前から辞してきた氷河を振り返り、やわらかい笑みを作る。
「アテナって、僕が想像していたのと違って、可愛らしくて優しそうな方だね。僕みたいに戦うこともできない者にも、気さくに声をかけてくれて」
「外見に騙されない方がいい。あれで彼女はなかなかの曲者だ」
「ここには氷河の友だちがいて、同じ目的を持って生きていく仲間がいるんだね……。僕もここに長くいられるような人間だったらよかったのに」
「瞬……?」

アテナも星矢たちも、いずれ敵にまわるかもしれない人間が聖域に入ることを認めさえすれ、追い払うような素振りは毫ほどにも見せなかった。
いったい瞬は何を根拠に、自分をここにいてはならないものだと決めつけているのか――。
「瞬」
瞬の思い込みの訳を問い質そうとして瞬の名を呼んだ氷河は、その時初めて、瞬の手が何か光るものを握りしめていることに気付き、ぎょっとしたのである。

それは大人の男の人差し指ほどの長さと幅のある小刀だった。
「瞬、おまえ、何を持っているんだ。アテナ神殿に武器を携えて入るなど、教皇にも許されないことだぞ」
「え?」
氷河にきつい口調で咎められた瞬が びくりと身体を震わせ、手にしていたものを神殿前の大理石の敷石の上に取り落とす。
氷河は、瞬より先に、それを拾い上げた。

「あ、ごめんなさい。それは繊維質の多い薬草の茎をなめすためのナイフで――武器じゃないよ。怪我をしないように、先が潰されているでしょう? そのナイフじゃ、オレンジも切れない」
「む……」
瞬の言う通りだった。
諸刃に見えたナイフの金属部分は、陶器の壺ほどの厚みがあり、全く鋭さがない。
刃の先端は赤ん坊の小指の爪程度の幅に潰されていた。
「この先っぽでオレンジの種を潰すくらいのことはできるけど……僕の手の上に置いてみて。突き刺さなくても、そのナイフは立っていられるから」
瞬に言われたように、そのナイフの潰れた切っ先を瞬の手の平に置くと、それは瞬の肌を傷付けることなく、瞬の手の平の上に直立した。

「ごめんなさい。僕、こんなに南の方に来たのは初めてだから、珍しい草があったら採取しておこうと思って。でも、そうだね。あらぬ誤解をさせちゃうから、これはしまっておくよ」
刃の部分を厚手の布で何重にも巻き、瞬がそれをチュニックの帯の間にしまい込む。
“あらぬ誤解”をしてしまった氷河は、ほっと安堵の息を洩らした。
同時に、瞬の頬が異様に青ざめていることに気付く。

「瞬。具合いが悪いのか?」
「アテナに会って緊張したのかも。喉がからからで……ちょっと目眩いもする。聖域には泉はあるの? それともどこからか水道を引いているの?」
「両方ある。待っていろ、水を持ってきてやる」
「ごめんなさい、氷河」
氷河がアテナ神殿の前から教皇の間へと下る石の階段を駆け出すと、瞬はその後ろ姿に向かってもう一度、『ごめんなさい』という言葉を繰り返したのである。
そして、すぐに、たった今出てきたばかりのアテナ神殿の中にとって返した。

アテナはまだ、先程彼女が瞬を接見した広間にいた。
女神の御座に腰をおろし、控える従者もいない空間を見詰めて何やら考え込んでいる。
その広間に、青い頬をして崩れるように一人で戻ってきた瞬の姿を認めると、アテナは慌てて掛けていた椅子から立ち上がった。

「瞬 !? ど……どうしたの?」
瞬の周囲には、小宇宙に似た熱い空気が渦巻いている。
まさか瞬を見付けたハーデスが聖域に張り巡らされた結界を破り、よりにもよって直接アテナに挑戦状を叩きつけにきたのか――そう考えて、彼女は一瞬 戦慄した。
ハーデスの意思が――意思だけが――聖域に入り込むことは想定内のことだったのだが、既に冥府の王が瞬の肉体に力を及ぼしているのだとすると、それは非常な危険な事態である。
瞬の瞳を見て それが杞憂に過ぎないことはすぐにわかったが、自分が杞憂したことより重大な事態が今この場で起こっていることに、彼女はやがて気付いた。
瞬の呼吸がおかしい。

「氷河には知らせないで。僕を、どこか人目につかないところに隠してください」
「なぜ」
「僕、もうすぐ死にます。肌から浸透する毒が塗られたナイフを手に押しつけられたので」
「毒……? 誰がそんなことを!」
「氷河が」
そんなことはありえないと言うように瞳を見開いたアテナに、瞬は項垂れるように瞼を伏せた。

「僕が氷河を騙したんです。氷河は、自分がしたことに気付いていない。――悪意や敵意を持っていない人を殺すのは罪ですよね。だから氷河は罪を犯したことになる。でも、自分が何をしたのかを氷河は知らずにいる。あなたと僕が知らせなければ、氷河は永遠にそのことを知らないままでいられる。自分でも知らないままで、氷河は罪人になれるの」
「瞬……あなたは何を言っているの」

眉をひそめるアテナに、瞬がほとんど力を感じさせない笑みを向ける。
「氷河が誰かにその清らかさを利用されようとしているんでしょう? そして、氷河を汚すことができるのは僕だけ。だから氷河は僕のところに来たんでしょう? 神々がそういう役割を自分たちに割りふった……」
「……」
アテナは、瞬が何を言っているのか、すぐには理解できなかったのである。

「氷河は聖闘士で、正義を為す者で、汚れたくない。そして、氷河は僕に罪を犯させたくないから苦しんでいて――」
徐々に、瞬の誤解の内容が、アテナにもわかってくる。
わかって、彼女は軽い目眩いに襲われた。
“現世で最も清らかな人間”は自分を清らかな人間だなどとは露ほどにも思っていなかったのだ。
その無自覚が、瞬にとんでもない誤解をさせることになった――らしい。

「氷河は罪を犯したんだから、もう清らかとは言い切れない。だからもう苦しまなくていいんだって、それだけ氷河に教えてあげてください。自分が何をしたのかを氷河が知る必要はないですよね?」
「瞬……あなたは大変な誤解をしているわ」
女神の声が震える。
瞬の側に駆け寄ろうとしたアテナは、氷河が神殿の広間の入り口に立っていることに気付いて、眉根を寄せた。
「僕をどこか、氷河に見付からないところに隠してください。僕、もう立っていられない……」

膝を折り、床に倒れかけた瞬の身体を抱きとめたのは、その神殿の主ではなく、白鳥座の聖闘士の腕だった。
「ど……どうすれば、そんな馬鹿な考えが出てくるんだ! 俺が清らか? 聖域中の奴等が爆笑するぞ! 毎晩おまえを犯す夢ばかり見ている男のどこが清らかだ、瞬っ」

氷河の声は既に瞬には聞こえていないようだった。
青白い瞼を伏せ、瞬は氷河の腕の中でぐったりとしている。
『僕は長くはここにいない方がいい』
『僕もここに長くいられるような人間だったらよかったのに』
瞬の呟きの意味を今になって理解して、氷河は唇を噛みしめた。
ぐずぐずと実行の時をためらっていることは、“現世で最も清らかな人間”の苦しみを長引かせるだけだと、瞬は思ったのだろう。
瞬のその果敢で速やかな決断と実行力が、だが今、氷河を狂気のように苦しめていた。

「アテナ! アテナ、瞬を救ってくれ! 瞬を死なせないでくれ……!」
氷河は、悲鳴じみた声で 彼の女神に訴えた。
「瞬がこのまま死んでしまえば、それがこの世界の存続のためには いちばんいいということはわかっている。瞬が死ぬことが、最も手っ取り早い解決方法だということも承知している。だが、瞬がいったい何をしたというんだ! 瞬を死なせたり、汚したりするくらいなら、俺がハーデスと戦う! 瞬を犠牲にしなければ生き続けることのできない人間なら、そんなものは滅んでしまった方がいいんだ。俺は、瞬を失って生き永らえることより、ハーデスと戦うことを選ぶ。たとえそれで俺自身が死ぬことになっても、必ず……必ず、ハーデスの野望は挫く。瞬が生きていてくれたら――瞬が生きている世界を、俺が守ってみせる。だから、瞬を――瞬を死なせないでくれっ……!」

氷河の小宇宙が大きく燃え上がる。
だが彼の小宇宙は敵を倒すための力をしか持っていない。
アテナ神殿の広間で、どこに向かえばいいのかを迷っている小宇宙が激しく迷走していた。
「氷河……」
氷河の悲痛な叫びは、アテナの胸にも刃物で抉られるような痛みをもたらしたが、それは安堵と、一つの大きな決意をもアテナの胸中に生むことになったのである。

たった一つの清らかな心と命。
必ずしも清らかとはいえない無数の人間たちの命と、彼等が生きている世界。
そのどちらが より重いと決めることは、誰にもできないだろう。
ただ、今の氷河にとっては、瞬を失うことは、この世界を失うも同じことであるようだった。
瞬にとっても、氷河を失うことは、世界を失うも同じことだったのだろう。
瞬は、世界を救うためというより、氷河ひとりを救うために、自身の死を覚悟したのだ。
たまたまそれが世界を救うことでもあったので――そう誤解していたので――瞬は、自身の死をためらう理由を持たなかったのだ。

氷河の願いを、アテナは、全く合理的でない――と思ったのである。
そして、瞬をこのまま見捨て、その命が消えることを看過すれば、すべては丸く収まることがわかっていながら、そうすることのできない自分自身をも、非合理を極めた存在だと思っていた。
「合理的ではないわね。誰も彼も、本当に。でも……そういう人間を愛している私も、合理的な神ではないのでしょう」
自嘲気味に笑って、アテナは、氷河の腕の中にいる瞬の脇に膝をつき、その胸に手を置いた。
氷河のものとは全く異なる小宇宙が、瞬の全身を包む。
瞬の手の平の青ざめた痣は消え、まもなく瞬の呼吸は平時のそれに戻った。
氷河の瞳に安堵と感謝の色が広がる。
言葉もなく、氷河は瞬の身体を強く抱きしめた。






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