それは、粘りつくようなドルバルのあの声とは全く違うものだったのだが、この地下牢にやってくるのは、あの退廃的で悪趣味な男しかいないと思い込んでいた瞬は、それを他の人間の声とは思わなかった。 あの教主が、彼に言わせれば“融通のきかない”アテナの聖闘士を嬲りに来たのだと思い、瞬は、弱くなりかけている自分の心を叱咤しようとした。 そうしようと思うだけの意思の力はまだある。 少しは、まだ力が残っている。 その最後の力をどう使うべきかを、瞬は迷った。 心を偽り彼に屈した振りをして聖域とアテナを守るべく画策すべきか、アテナの聖闘士としての名誉と尊厳を重視しアテナへの忠誠に殉じるべきか。 実利を取るか、名誉を取るか。 アテナは、はたしてどちらを是とするのか――。 アテナはおそらく『生きるための努力をしろ』と言うだろうことがわかっているからこそ、瞬は迷ったのである。 「そこにいるのは誰だ」 重ねて問うてくる声で、瞬は意識を明確にした。 ドルバルや、ワルハラ宮の者ならそんなことを訊いてくるはずがない。 ここに、愚かにもドルバル教主に逆らったアテナの聖闘士がいることを、ドルバルや彼の配下の者たちは承知しているはずだった。 「誰……」 近付いてくる者の正体を見極めるために、瞬は目を凝らそうとしたのだが、瞼が重くて、瞬はそうすることができなかった。 かろうじて、声を発することだけができる。 「ドルバルの部下ではないの? なら、僕をここから出して……。アテナに――聖域に、ドルバルの企みを知らせなくては。一刻も早く――」 既に、一刻早くてどうなるわけでもない時間をここで費やした。 だが、彼がドルバルの陣営の者でないのなら、彼は自分に聖闘士としての務めを果たすチャンスを与えてくれるかもしれない。 小さな希望が、瞬の胸の内に生まれた。 「囚われている者がいるのか」 男の声――ドルバルではない男の声。 ドルバルのものよりずっと軽い足音の持ち主が、瞬の牢の鉄格子の扉の前で立ち止まる。 その人影に向かって、瞬は叫んでいた。 「お願い、僕をここから出して! 出してくれたら、何でもする!」 「何でも……? そんな言葉は軽々しく口にしない方がいい。おまえが他人との約束事など本気で守る気がないのなら、話は別だが」 「何でもするよ。聖域に、ドルバルの企みを知らせてからなら、この命だってあげる。だから、ここから出して……!」 瞬の訴えに何の答えも返すことなく、人影が瞬の視界から消える。 それだけのことで瞬は絶望しかけたのだが、彼が瞬の前から立ち去ったのは、牢の鍵を探すためだったらしい。 まもなく再び瞬の前に戻ってきた彼は、牢の鍵を開け、ためらう様子もなく狭い牢の中に入ってきた。 両手で身体を支えるようにして、瞬は上体を起こしたのである。 この冷たい地下牢を出て、もう一度 太陽の光を見ることができるかもしれないという希望が、瞬に力を運んできてくれた。 立ち上がることができずにいる瞬の前に片膝をついて、その男が瞬の顔を覗き込んでくる。 彼は、腰に剣を ということは、彼は、拳で戦う聖闘士や、ドルバルが養っていた神闘士ではないということになる。 敵ではないかもしれないが味方と断じることもできない相手――ということだった。 「おまえはアテナの聖闘士か? よもやアテナの聖闘士が その場しのぎの嘘を言うことはないと思うが……しかし、はたして信用していいものかどうか。『何でもする』とは」 男の声には、瞬をからかうように軽快な響きが混じっていた。 彼はドルバルと同じ種類の人間ではない――彼は絶対にドルバルのように、弱くなっていく人間の心を嬲り楽しむような暗い趣味の持ち主ではない――と、その声の響きに瞬は確信したのである。 だからといって、彼の言葉は必ずしも瞬にとって快いものではなかったが。 「アテナの聖闘士が嘘なんて言うわけないでしょう! あと半日もここにいたら、僕は確実に死ぬ。そんな人間が、今更自分の命を惜しむとでも思っているの!」 空腹なのだが声は出た。 その声を聞いて、瞬は、自分は半日どころか、あと3日はもつかもしれないと思ったのである。 「死に瀕した人間だからこそ命を惜しむのではないのか」 彼の軽い響きの声と皮肉な言葉は、瞬をいらいらさせた。 ドルバルのあの視線で舐めるように見詰められた時にも、瞬は これほど苛立ちはしなかったというのに。 ドルバルの声と言葉、その視線は、ひどく不気味で人間的でなく、瞬を陰鬱な気分にさせるばかりだった。 見知らぬ男から もたらされる その苛立ちによって、瞬は、ドルバルが彼の虜囚の周囲に張り巡らせた絶望の罠から 自身の心と身体が解放されていくのを感じることになったのである。 「何でもすると言ったら、何でもするのっ。聖域に――アテナに万一のことがあったなら、あなただって無事ではいられないかもしれないよ! そんなこともわからないのっ」 暴君に自由を奪われ希望を失っていたはずの虜囚の やたらと 「アテナの聖闘士というのは、皆こんな 「僕は命がけなの! ドルバルが聖域の支配を企んでいる。聖域の守りは堅固だけど、あのドルバルのこと、どんな卑劣な手を使ってくるかわかったものじゃない。油断していたらアテナだって危ない。そうなったらどうなるかわかってるの !? 」 「さあ? どうなるんだ?」 「世界は秩序を失い、正義を失い、地獄さながらの様相を呈して、やがて滅ぶんだよ!」 「想像力が豊かだな」 彼は感心したように、瞬にそう言った。 そして、独り言のように、 「いや、この北の国は想像するまでもなく既に地獄だった」 と、呟く。 地獄 では、今はそうではないのか。 皮肉を交えて彼に問い質そうとした瞬は、寸前でその考えを声にすることを思いとどまった。 少なくとも今、自分の目の前には微かな希望の光が射し込んできている。 瞬は、この光を見失うわけにはいかなかった。 「約束は守る。あなたが僕をここから出してくれたら、僕は何でもする」 「食事を与えられていたようにも見えないが」 生きるか死ぬか、希望か絶望か―― その時になって初めて、瞬は彼の瞳が青いことに気付いた。 その瞳には冷たく厳しい光がたたえられていたが、彼には害意はないようだった。 彼の瞳には、ドルバルのそれのような残虐な濁りがない。 だから、つい、瞬は気を緩めてしまったのである。 彼はドルバルのように傲慢で特異な怪物ではなく、人間らしい感情を持った普通の人間なのだと思えることが、瞬の胸中に甘えのようなものを運んできた。 人間ならば、窮状にある人間に同情心を抱き、救いの手を差し延べるはずだと、瞬は思ったのである。 他でもない瞬自身が、そういう人間だったから。 「……あの……食べ物もちょうだい。僕の聖衣も取り返して。ううん、その前に、ドルバルの目の届かないところに僕を連れて行って。あったかいところがいい。そして、ああ……お風呂に入りたい……」 「――注文の多い囚人だ」 「おなか――へった……」 気力だけで意識を保っていた瞬は、一度緊張の糸を緩めると、そのまま身体の衰弱に引きずられることになった。 そして、瞬はその男の胸の中に倒れこんだ。 瞬にはそこが とても温かい場所のように思えたのだ。 「アテナの聖闘士って奴は……本当に図々しい」 呆れたような呟きが聞こえたが、瞬は目を開けて彼に反駁する気にはなれなかった。 彼は敵ではない。 何より温かい。 身体の衰弱や空腹のせいではなく安堵の思いに誘われて、瞬は今度こそ本当に 自らの意識を手放した――手放すことができた。 |